スティーヴン・キング
スタンド・バイ・ミー
新潮文庫 1987
ISBN:4102193057
Stephen King
The Different Seasons 1 1982
[訳]山田順子

 きっと付き合いにくい奴なんだろうとおもう。そういう顔をしている。ところがその手練手管といったら、べらぼうだ。キングの筋書きや言い回しや落としどころで、ここはヘタクソだと思ったことがない。
 きっと寒気がしながら急いで読んでいるので、本当はヘタクソなところがあるのだろうに、それに気がつかないだけなのかもしれないが、子供のころに夜中のおしっこに行くとき脇目もふらずに走りだすあの感覚に似て、仮にヘタクソなところがあったとしても、キングはそれを読者に気付かせぬままに走りださせるようにしているのかもしれない。それを含めて、キングはべらぼうなのだ。
 ここではそうしたキングの作家論など野暮なのでしないことにするが、ぼくがなぜキングを読み始めたかということについて、一言だけ説明しておく。

 日本で真っ先にモダンホラーを夢中で読んでいたのは、前後左右の周囲の事情をあれこれ併せて判断すると、おそらく“まりの・るうにい”である。そのころ彼女はこんなことを言っていた。「あのね、ディーン・クーンツやスティーヴン・キングの話をしたら、荒俣さんは名前も知らなかったわよ」。
 荒俣宏がモダンホラーを知らなかったからといって、そういうことはよくあることだから驚くことはないのだが、おかげでぼくは身近でモダンホラーに慄く一人の先駆的読者を観察することになったのだ。ところが、それが尋常ではなかった。何度も「どう?」って聞いたのだが、何も言わないのだ。
 こういうことはこれまでなかったのである。「こういうこと」というのは、そもそも我が家ではたいていの新しい文芸動向は“まりの・るうにい”が走破する。金井美恵子もブコウスキーも、高橋源一郎もクーンツも、高村薫も笙野頼子もエルヴェ・ギベールも、すべて彼女の走破のあとに、ぼくがおそるおそる感想を聞いてから読むわけだった。彼女は多弁は弄しない。それでも、「うん、まあまあ」であれ、「あっ、あれはつまんない」であれ(たとえば花村万月の『笑う山崎』以降の作品)、「ちょっと読んでみたら」であれ、その合図でだいたいのことはわかる。
 けれどもキングについては何も言わない。クーンツは薦められたが、キングについては長らく沈黙したままなのだ。それで仕方なく自分で読むことになったのである。
 以上がぼくの“キング読み初め”の経緯であるのだが、後日談をひとつ。ずっとあとになって「なんでスティーブン・キングについては感想がなかったの?」と聞いたところ、「小説の作り方を読んでいたから」というものだった。なるほど、やはりのこと、キングは手の内で手の内を手の内通りに読ませる達人だったのだ。

 本書は、その“手の内キング”がタチの悪い批評家たちから「モダンホラー以外は書けないのか」と言われていたころ、“普通”のノベレットを書いてみせたものである。英語の原題は『四季』。春夏秋冬4篇を書き分けた。
 この作品はそのうちのノベレットの1篇で、原題は“The Body”(死体)になっている。けれどもロブ・ライナーによって映画化された『スタンド・バイ・ミー』が大当たりして、日本ではこの表題でいまも通ったままにある。エンディングのタイトルロールだけにベン・E・キングの往年の名曲「スタンド・バイ・ミー」が使われたのだが、これが泣かせたせいである。
 それにしてもスティーブン・キングはやはり“普通”じゃなかった。このノベレットは“ホラー”でもないが、でも“普通”でもなかった。キングの達人の賜物だった。
 どういう話の、どういう賜物かというと、まあ、次のような感じなのである。

 ぼくはいま作家だが、田舎町のキャッスル・ロックにいたころの遠い懐かしい12歳の夏のことを思い出している。行方不明のレイ・ブラワーの死体がロイヤルリバーの森の中のどこかにあるという噂を聞いて、悪ガキ3人と探検に出た9月のことだ。暑い熱い夏の終わりだった。
 4人で驀進する汽車と戯れながら線路を歩き、長い鉄橋を越え、ヒルに襲われた池を渡り、キャンプをし、喧嘩をしながら笑い転げあって、やっと辿りついた夏のことだ。変な4人組だったけれど、あんなことはもうおこらない。だいたい、どうして死体など見たいと思ったのだろう。それもよせばいいのに、どうして道路を歩かずに線路や森を突っ切ることになったのだろう。
 死体を見つけたことは、どうでもよかった。ただ、その死体の発見を横取りしようとする奴らがいたことに立ち向かったことだけを憶えている。あのときのクリスはカッコよかった。ぼくもクリスが持ち出してきたピストルを構えたものだ。
 でも、もうあんなことは二度とおこるまい。少年時代だけが近寄れる、たった一度だけの冒険なのだ。

 そうなのだ。ぼくはこの12歳の夏に、すべての大事なこと、あんなに背伸びをしたことがないほどの高度な儀式、勇気なくしては迎えられない通過儀礼、どんな変化もおこしてくれる魔法、という3つの、世界で一番大事なことを体験した。
 たった2日間なのに、そこにはユークリッドの幾何学から『スパイダーマン』の全巻があった。ドストエフスキーの審判からエルヴィス・プレスリーの全曲まで、みんなあった。
 しかし、もっと大事なことがそこにはあったことを、ぼくはいま思い出している。それは友達がそばにいたことだ。もう、こんなことは二度とおこるまい。

  ♪夜の闇があたりを包み、
   月明かりが見えなくとも、
   ぼくは怖くない、怖くはないさ。
   君がそばにいてくれるなら、
   友よ、友よ、
   いつも君がそばにいておくれ。
   いつも、ぼくのそばに(スタンド・バイ・ミー)。

 ぼくがスティーブン・キングでぐすぐす泣いたのは、この一作だけである。ロブ・ライナーの映画では嗚咽した。
 それから何度、ぼくは自分の12歳を思い出したことだろう。中村晋造を思い出し、嵐山で飯盒をひっくりかえしたことを思い出し、溝川陽子を思い出し、風呂屋で空手の兄さんに沈められたことを思い出し、山脇勝夫が5人の不良に囲まれながら、電光石火で張り手をかましたのを思い出した。
 けれども、いまはそういうことも思い出さなくなっている。『スタンド・バイ・ミー』を聞くとき以外は・・・。
 そう、そう、付け加えるのを忘れていた。ぼくがその後のスティーブン・キングでぞっこんになったのは、あの長い長い『IT』(イット)だけだった。問題は、そう、12歳のころから「それ」だけなんだから、これは当り前の感想だろう。

  ♪見上げる空が落ちてしまい、
   山が崩れ、海に沈んでも、
   ぼくは泣かない、涙なんて流さない。
   君がそばにいてくれるなら、
   友よ、友よ、
   いつも君がそばにいておれ。
   いつも、ぼくのそばに(スタンド・バイ・ミー)。

セイゴオマーキング2

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