クリス・レイヴァーズ
ゾウの耳はなぜ大きい?
早川書房 2002
ISBN:4152084324
Chris Lavers
Why Elephants Have Big Ears 2000
[訳]斎藤隆央

 ゾウは鼻が長い。ミミズは雨が好きだ。これは国語の問題だ。なぜ「~は~が」というふうに二つも主語が並ぶのか。日本語って変ですねという問題になる。これについては大野晋さんが登場すべき領分で、『日本語練習帳』などを読むことになる。
 ゾウの耳はなぜ大きい? ゾウの鼻はなぜ長い? なぜミミズは雨が好きなのか? あいかわらず主語は二つあるけれど、これらは生物の問題になる。「なぜ」がつくだけで、問題は科学の領分に移る。ただし生物学のどの領分の問題なのかは、それぞれ異なってくる。遺伝子で決定されていることもあれば、環境条件で変化したものもある。
 たとえば、なぜミミズは雨が好きなのかという問題はミミズとゴカイのニッチの分かれ目の問題になるが、ネズミの大きさとゾウの大きさの違いは頭化係数などで比較する以外は、生物学的には比較しても何の意味もない。むしろ進化の問題に戻って考えることになる。ところが、ネズミもゾウも体温を38度に保とうとしているのはなぜかという問題になると、ネズミとゾウの大きさなど問題にならなくなってくる。そのかわり、やっとネズミの耳とゾウの耳の相対的な大きさや形の比較に意味が出てくる。

 生物にはキリなくなるくらいに謎が多い。それでもどんな領分の謎にもこれまでそれなりの研究成果が寄せられていて、まだ未解決の部分のほうが多いとはいえ、疑問の地図の半分くらいは多色に塗りつぶされてきた。
 ところがなかで、ほとんど回答が寄せられていないか、とんちんかんな推測しかなかった領分がたかまりのようにある。生物はどうしてあれほど多様なデザインができているのか、何が生物の形を決める遺伝子なのか、どこに生物の形を決める設計図や色彩計画表があるのかという問題をかかえた領分だ。
 むろん仮説がまったくないわけではない。第735夜のフォン・ユクスキュル『生物から見た世界』で触れたダーシー・トムソンの仮説などは早期の提案だったし、最近のロボティクスやバイオメカニクスの研究者たちも生物のデザインに強い関心を向けている。しかし遺伝子解析のほうもこの分野が苦手なのか、生物学者たちの多くは「生物のデザイン」には尻込みしたままなのだ。
 フィリッシュやローレンツの出現によって、勇敢で周到な仮説を作り出す幅広い研究層を用意してくれたエソロジー(動物行動学)がつねに生物の形に関心をもってきたが、これも形態のためではなくて生態の観察が中心になっている研究分野なので、とくに形の決め手をあきらかにすることが目的にはなっていないのだ。

 いったい、生物の形を決めているのはデザインの問題なのかどうかということもある。デザインではなく情報処理の問題とか情報編集の問題と考えたほうがよいのかもしれない。
 そもそもデザインは「機能」と「装飾」という二つの矛盾しあった問題を抱えているわけで、椅子や破風や箪笥のように機能が先行して装飾がそれに付随する外観ならデザイン問題であらかたカタがつくが、「サバンナで草食する動物」という機能だけで、キリンの首の長さのプロポーションやシマウマの縞のパターンを一緒に議論するわけにはいかないのだ。
 さらに困るのは蝶の鱗粉模様や鳥の羽根の色彩のことで、これらは、蝶が蝶であるための条件や鳥が鳥であるための条件を成立させていることと、ほとんど関係がない。気まぐれにオシャレをしているとは言わないものの、保護色・警戒色そのほかいろいろそれらしい理由をあげてみても、なんら説明にはならない。
 というわけで、生物とデザインという問題はいまのところまったく整理がついていない領分だということになって、これをどこで議論していけばいいかが大問題なのだ。

 すでに第308夜のホワイト『形の冒険』のところの冒頭に書いておいたように、いま、「過去の伝統」と「現在の経験」と「生産的行動」の3つがバラバラに取り組まれたまま放置されている。そこにはいっさいの統合的な視点が失われたままになっている。
 このバラバラは、察する通りの今日の社会経済文化的な大問題でもあるが、生物学的にもまったく情けない体たらくであって、これを貫くためには、どこかで「形に対する思考」を回復するか、あらたに再構築しなければならないというのが、ホワイトの思想であった。
 では「形に対する思考」はどこを新たな出発点にするべきなのかというと、フォーマティブ(形成的)な視点とモーフィック(造形的)な視点を重ねるところに打開を見つけたい。多くのデザイナーもこの思想を欠いている。
 しかし、この思想をもつべきなのに、いちばん欠かしているのが生物学者たちなのである。本書はそのような意味で、なんとか「形に対する思考」を取り戻そうとした試みをもつもので、著者のクリス・レイヴァーズが動物生態学と生物地理学の両方を収めてきたことがバネになって、なぜゾウは耳が大きいのかという問題にひそむテーマに挑んでいた。
 けれども、紹介しておいてすぐにケチをつけるのも失礼なことだろうが、本書では「形の設計図」がどこにあるかは、まだわからない。

 レイヴァーズが本書を通して用意した答えは、生物の形を決めている手がかりのひとつが「代謝エンジン」にあるのではないかというものだ。
 これは、体温や換気や放熱のシステムが体の基本設計に大きく関与しているのではないかという発想から組み立てられていて、この仮説自体には説得力がある。
 そもそも動物には大別して、爬虫類のような冷血動物と哺乳類のような温血動物とがあるのだが、環境適応の違いによって、その熱代謝のしくみがいろいろのところに工夫をもたらしている。ゾウの耳が大きいのは、耳がラジエーター(放熱器)の役割の大半を受け持ったからで、なぜそうなったかといえば、ゾウのその他の体の部分構造との関係においてバランスをとったという説明だ。
 これはどちらかというと生物工学っぽい解釈で、たとえば水道の蛇口につけたホースの片方を庭に放り出して水を出すと、ホースがその勢いによっていろいろ動く。たくさん水を送り出すとホースは暴れ、弱くするとホースはじっとしている。ホースの出口をしだいに高くすると、同じ水量でもホースから出てくる水の勢いが変わる。もっと高くするとチョロチョロとしか出てこない。こういう事情から生物の形にアプローチしようとした。

 そこで、この水とホースとの関係を、水を熱とか呼吸とか排出ガスとみなし、ホースの形を太ったものとか蛇腹のものとか、くびれがあるものに変えて、この関係をいろいろ考えてみる。
 そうすると、このシステム全体が「形をもった代謝エンジン」に見えてくる。夜店で風船をふくらませてそれをいろいろの動物の形にしてお嬢ちゃん坊ちゃんに提供しているのがあるが、あの動物風船の形が代謝エンジンを抱えたシステムだとみなすのである。
 ただし動物風船は均質なビニール素材だが、本物の動物は皮や鱗や羽毛がついている。その基本素材によって代謝効率が違うから、どの素材で環境に初期適応したかで第一次デザインがおおざっぱに決まる。それでも環境変化やニッチの変化や餌の増減が激しくおこるから、そこで体のくびれを変えたり、耳を大きくしたり、クチバシを尖らせる。これが第二次デザインだ。
 それをもって代謝効率が維持できればそれでいいが、うまくいかなければ、もっと耳を大きくしたり、逆に皮膚に生えている毛を工夫する。ホッキョクグマは毛を中空にして光ファイバーの役目をもたせ、短い波長の光熱を皮膚の奥まで届くようしにした。
 こんなふうなことを繰り返しているうちに、ゾウの耳はあんなに大きくなったのではないかというのが、レイヴァーズの考え方である。ふーん、なるほどそうかなと思う。

 しかし、ゾウの耳が大きくなったのはいいとして、鼻はなぜ長くなったのか。
 これについては、体を巨大にし、その体重を支えるために短足の太い足をつくってみたら、口が地面や餌に届かなくなっていたのでついに鼻を長くせざるをえなかったというのだが、これはないだろう。どうも説明がバラバラなのだ。
 本書に文句をつけるつもりはない。なかなか面白かったのだが、如何せん、生物の「形の問題」は生物学者が想像しているよりずっと大きな問題なのである。ゾウの耳のデザインが熱代謝で決まったからといって、その耳に縞々の模様をつけなかった理由の説明にはならないのだ。
 ゾウは耳が大きくて、色がなく、また薄い。けれどもサイは耳が小さくて鼻は顔の突起で変えている。生物の説明には、国語よりももっとたくさんの同時主語が必要なのである。

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