シャルル・ボードレール
悪の華
新潮文庫 1953
ISBN:4087601978
Charles Baudelaire
Lea Fleurs du Mal 1857
[訳]堀口大学

 ランボオが“desorienter”(途方にくれる)であるとすれば、ボードレールは“derealisation”(現実感の喪失)だ。ランボオが“informe”(不安定)であるのなら、ボードレールはその逆の“cemtralisatiom”(集中的)だった。
 ランボオは1871年のドメニイ宛の書簡で、数々の詩人の名をあげたうえで、ボードレールこそが「第一の見者」であって、「詩人たちの王者」「真の神」と誉めそやしたけれど、その資質は逆を向いていた。ランボオは「見者」(ボォワイヤン)であろうとしたが、ボードレールは「覗く人」(ボォワイエール)だった。ランボオは熱いが、ボードレールは苦いのだ。

 ボードレールの「苦み」は暗示と隠喩でしか伝わらない。ボードレールはナマの素材をそのまま食べさせたいというような、白金通りあたりのナチュラルハウスの客ではなかったからだ。
 どんな食材であれ、それらを次々に水で晒し、オイルで炒め、周到な粉をまぶして揚げてしまう料理人だった。その食材が“詩材”なのである。「苦み」はその料理からあらわれる想像性(イマジネール)なのだ。
 そんな「想像としての苦み」を通してボードレールが何をしようとしたかといえば、「照応」という一事が万事であった。まさに万象反応・万物照応、“correspondances”である
コレスポンダンス。
 この一語にはボードレールの想像力のすべてが対応しているというべきだ。1859年、ボードレールは想像力が森羅万象を解体し、その素材によって新たな世界像を言葉によってコレスポンダンスに現出しうることを決定的に確信したものだ。コレポンをボードレールがつくるのではなくて、ボードレールがコレポンに入ってしまうこと、それがコレスポンダンスだった。それは一個の小さな香水壜をしてさえ、時空とのコレスポンダンスを現出させるに足りた。『悪の華』の「香水の壜」は次のように、そこを謳う。

  どんな物質でも浸透する強い匂ひがあるものだ。
どうやら硝子にさへそれは滲み込むらしい。
錠前が錆びついて仲々開かないやうな、
昔、東邦から将来された小匣を無理に開けたり、
人の住まなくなつた古家に置き忘れられ、
煤けて、埃まみれの、
むせかへるやうな昔の匂ひで一ぱいな
箪笥を開けたりすると、
思ひ出し顔の古い香水の空壜が見つかつたりして、
生き生きと昔の人の心が甦へつたりする事がある。

 
ボードレールの照応は、自然の中での照応ではない。方法の中での照応である。合理的なものじゃない。言葉の化学反応の中での照応だ。とくに事物どうしが時間の中で照応しあうことに、ボードレールは自分のいっさいの想像力を浪費した。
 ぼくはかつて、このコレスポンダンスについてのエッセイ「人工ネズミのゼンマイを巻くべきか」(のちに「人工時間の祝祭者」と改題)で、ゼンマイ仕掛けのネズミを少年が棚の上に放置しているからといって、それを親たちが「うちの子供はすぐ倦きるんですよねえ」と言って子供を詰るのはよしなさいと書いたうえで、「冗談じゃない。お母さん、あなたのほうが芸術的すぎる!」と結んだことがあった。
 このエッセイは1976年の「存在と精神の系譜」のためのもので、「とりかえしえぬものが呪われた歯でかじる」「脳髄の祝祭という時間」というボードレールの一行を敷延したものだった。25年前のエッセイになる。ボードレールの「アレゴリーという深さをもつ時間」「感動を多様化することによってひきのばされた時間」に注目して書いた。
 この見方はいまでも変わらない。ボードレールはプーシキン、ゴーゴリ、ホフマンなどと同様、「事物の時間」を知っている数少ない詩人の一人で、その「事物の時間」のなかでこそ万物照応がおこり、苦みが出てくることを知っていたのである。しかもそれを、ボードレールはあとから知ったのだ。

 ボードレールが21歳のときに、カルカッタ行遠洋航路の客船に半ば強制的に乗せられて、アフリカ東岸のモーリシャス島まで行っていることは、あまり知られていない。天保12年のことだ。
 事情はこうである。
 パリでボードレールが生まれたとき、父親は62歳だったが、ボードレールが7歳のときに死んだ。翌年、母親は陸軍少佐と再婚してリヨンに移り住む。箪笥の奥にしまわれた「お母さま」の下着やクローゼットに掛かっている毛皮のコートに顔を埋めるような少年だったボードレールは、これで自我にめざめ、ほぼ完璧な男性である軍人の養父との無限の精神の軋轢の襞を知る。
 それでボードレールがぐれたのではない。パリに戻った一家のもと(師団参謀本部の中に住んだ!)、ボードレールはむしろ学業に才能を示し、ラテン語の詩と英語では成績第一に躍り出た。ラマルティーヌ、ヴィクトル・ユゴー、サント・ブーヴ、ドロクロアの絵がお気に入りだった。ちなみにこの時期のフランスは七月革命ののちの産業革命が驀進しつつあったころで、その一方でフーリエの空想社会主義、コントの実証社会学、バルザックの『人間喜劇』の観察が登場して、オーギュスト・ブランキの「季節社」の蜂起にパリが騒々しくなっていた。

 この活気と反抗のパリのなか、成績優秀のボードレールもこっそり逸脱をたのしむようになっていた。ところがこの青少年はまだ逸楽には達していない。ユダヤ人の娼婦と交わって淋病となったときは、その手当に困って兄貴のアルフォンスに相談し、ことなきをえている。
 それがのちになると、ボードレールはこの娼婦を何度も詩に詠むことになる。そのひとつが『悪の華』に有名な「死体に添寝する死体のやうに、或る晩僕は醜悪なユダヤ女の側にゐた」で始まる詩であった。このなかでボードレールは、このお乳が垂れているような醜悪な娼婦と交わりつつも、絶世の美女を想像するのである。信じがたい想像力だった。
 しかしこのようにボードレールがのちに世界の詩壇を震撼させるような、つまりは“罪の聖書”を書いた詩人としてコレスポンダンスな想像力を発揮するのは、カルカッタ行の航海をしてからなのだ。これはしだいに捻じくれて、借金をするようになってきた青少年シャルルの所業に困りはじめ義父と兄貴が、「こいつはひとつ、航海にでも出したほうがよい」と判断したためだった。

 こうして1841年6月、ボードレールは商船「南海号」に乗船させられて一路赤道に向かっていく。のちの作品や手紙からすると、この航海でボードレールは決してしょぼくれてはいない。すべての出来事を克明に胸に刻んでいた。
 とくに水夫の一人がアホウドリを撃って紐に縛り、パイプの火でアホウドリの嘴をいたぶろうとしたときは、ボードレールはこの水夫に殴りかかって、船長に引き留められたほどだった。このときの体験が、『悪の華』のなかで最も美しい詩だと評判になった「しばしばよ、なぐさめに、船人等」に始まる『信天翁』である。ともかくボードレールはあとから「そのこと」を謳うのだ。
 やがて船は嵐にあってアメリカ船に助けられ、モーリシャス島のポート・ルイスに入る。船体の修理には数週間がかかるということで、ボードレールは義父の知り合いの一家に滞在して、そこの美しい妻に迎えられる。周囲は青い空、広大なサトウキビ畑、白い上着と帽子をかぶった植民地紳士たち、マングローブと水の生命力に囲まれて、まるで“糖蜜”のようである。すぐにハワイやグァムやプーケットに行きたがる連中には、天国だ。
 けれどもここで、ボードレールはついに逆世界があることを発見した。自分が求めているのがこのような自然と人間による恩恵ではなくて、パリの裏町で感じた、あの都会の喧騒と埃と、あのふしだらなものたちの交流であったということを――。一瓶の中に万物が入りこんでしまう古びた机がありうるということを――。
 そうなのだ、ボードレールは自分が「苦み」を渇望していたことを知ったのだ。

 ボードレールはパリに戻り、ふたたび借金生活をし、混血のあばずれ女のジャンヌと暮らし、友人から借り受けた美術品を室内にしばらく飾っては、これを売っ払うという日々に入っていく。まったく売れなかったという『一八四六年のサロン』の一冊、すなわちフランス史上初の美術批評文はこのときの産物である。
 それでもボードレールは南海の楽園にいるより、ずっと生き生きしていた。ただ、「お母さま」の心だけが心配で、あいかわらずマザコンまるだしの手紙を母親に送っている。ここまでは、さすがのボードレールは三田佳子の息子か、さもなくば岸部シローのようなものなのである。
 ただし、いよいよその才能が過去のすべてを取り戻す日が近づいていた。何度でも強調しておくが、ボードレールは食材をあとから加工して、それらを苦みソース付きのコレスポンダンス料理にする名人だったのである。

 このあとのボードレールのことはよく知られている。バビロン街36番地の住居、あいかわらずの借金、『カリカチュアの歴史』『彫刻の歴史』を書こうとしたこと、二月革命の街頭で赤いネクタイを巻いたこと、ブランキの「中央共和派協会」への入会、プルードンとの出会い、群衆が狂気であることの驚き、いつまでたっても完成しない『冥府』の執筆、などなどだ。
 しかし、これらの時期での最大の事件は、なんといってもエドガー・アラン・ポーの作品に接したことと、高級娼婦サバティエ夫人および女優マリー・ドーブランに出会ったことである。
 その後のボードレールの詩的宿命を大きく決定づけることになるポーは、二月革命からルイ・ナポレオンのクーデタの支配がおよぶ1849年に死んだばかりだった。ボードレールはここに「大西洋の向こうにいた精神の血液がつながる兄」を発見し、狼藉性・中毒性・怠慢性・幻覚性といった自分との著しい共通性に感極まっていく。ただちにポーの翻訳に連続的にとりくんだボードレールが、ポーのゴシックで悪魔的な幻想の呪いに夢中になったことは、いまさら言うまでもない。『悪の華』の冒頭の詩『祝祷』が、まさにポーに捧げられた自分自身の詩神性を宣言する作品だったのだ。その最初の一連は、こうである。

  至上の神の命令一下して
「詩人」がこの退屈な世に生れ出た時、
生んだ母親は喫驚仰天、拳を固め
悪口雑言、哀れとおぼす「神」さへ怨んだ。

 
ボードレールがポーの中に発見したもの、それは「不吉」であったが、サバティエ夫人とマリー・ドーブランに見出したものは「高慢な慰撫」である。
 サバティエ夫人はテオフィル・ゴーティからは「女議長」の、男たちからは「アポロニー」の“尊称”を与えられていた当時をときめく高級娼婦で、数々の有名人の愛人をへて鉱山王によって邸宅調度をすべて与えられ、言ってみれば「社交界の好色」を一手に引き受けていたようなところがあった。まあ、叶姉妹のようなものである(か、どうかは知らない)。ボードレールはこのような女性がいることにおおいに感激し、やたらに献詩を送っている。
 もう一人のマリー・ドーブランは、ちょうど人気が出始めた女優で、ボードレールは彼女にマドンナの役割をあてがうのだが、サバティエ夫人といいマリーといい、貧相なボードレールが相手のできる女性ではなかった。しかし、それでよかったのだ。ボードレールはこうしてついに「悪の華」のとびきりの食材に巡り会ったのだから(その後も食材は次々に出現するが)。
 かくしてついに刊行されたのが『悪の華』だった。周知のように『悪の華』はあっというまに告訴され、その汚濁趣味、悪魔主義、姦淫肯定などが処罰の対象となった。ボードレールは作品ではなく、罪状で有名になった。

 ボードレールが「覗く人」であって、とんでもなく長期にわたったマザコンであり、「体験をずっとあとから加工していく詩人」であって、女性の深みに溺れる少年であり、自分だけがしきりに「苦み」を気に入っている快楽追求者であることは、だいたい以上のような話で充分に察せられることだとおもう。
 きっと、このような特質の十分の一くらい(ひょっとすると半分くらい)は、ぼくにもまんべんなく備わっている。ぼくもまた寺山修司以上に覗き見が大好きで、女性の深みにつねに溺れていたい少年で、そのくせ「冷え寂び」大好き人間なのである。
 まったく異なるのはぼくにはまったく薬物嗜好がないことで、そこはトマス・ド・クインシーに憧れてオピアム・イーター(阿片吸引者)になったボードレールの異様に(ということはジャン・コクトーからウィリアム・バロウズまでもということになるが)、ただただ畏敬するばかりなのだ。
 加えていえば、『悪の華』の草稿の写真版を見て驚いたことがあるのだが、そこにもぼくの性癖にきわめて似ているものがあった。それは判読不能なほどの推敲につぐ推敲で、いったい何度校正をしているかがわからない。ボードレール自身はそれを「憤怒と忍耐による推敲」と呼んでいるものの、どちらかというと、わが子を手元から出立させるために母親が髪から足元までを何度も何度も点検して手を入れているようにも、見えた。
 ぼくもまた推敲ならずうっとしていたいほうなのだ。ただし、「千夜千冊」以外の――。

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