石原勝敏
背に腹はかえられるか
裳華房 1996
ISBN:4785386584

 この著者とぼくは、少年期にまったく同じドギマギする体験をした。セミの地虫(幼虫)をたくさんとってきて、蚊帳の中で一晩中セミの羽化を眺めていたという体験だ。
 この体験は忘れられない。茶色い地虫の背中が割れ、小さく透明で柔らかな翅がみるみる伸びたかとおもうまもなく、その翅が未明の曙光に照らされてキラキラと七色に輝くのである。それが次々におこっていく。この世で最も美しいひとときに思えた。鳥取生まれの著者もまったく同様に、蚊帳の中のセミの羽化に固唾をのんでいたらしい。「その美しさはたとえようがない」と書いている。
 ところが、この同じような少年観察をした著者とぼくとのあいだでは、ほんの一瞬のことではあるが、決定的な差がおこっていたようなのだ。
 それは何かというと、著者は感動のあまり一匹の幼いセミの翅に思わず触れたらしい。そして、その指が触れたセミの片方の翅だけが伸びなかったというのだ。それだけではなく、この指を触れたセミはくるくる回るようにしか動けず、翅は茶褐色となり、2日後に死んでしまったという。
 こうして、著者の石原勝敏は島根大学から東大大学院をへて発生学者となり、ぼくは早稲田を途中で放棄して父親の借金返済に向かい、一介のエディターとなった。教訓。ふやふやとした生き物がいたら、それが好きな子であれ綺麗な先生であれ、ちょっとは触ってみるということなのである。あとの人生が変わってくる。

 植物や動物には相称性と反相称性というものがある。
 植物の大半は線対称、タンポポの種にも放射相称の冠毛がついている。原生動物の多くは点対称の回転体、ヒドラやイソギンチャクは上下の方向性だけをもった線対称、哺乳動物のほとんどは面対称である。
 反相称性もある。アサガオ・ヒルガオ・インゲン・サツマイモの茎は右巻きで、フジ・スイカズラ・カナムグラは左巻き、「ミラクルな巻貝」(!)も一方向の巻きになっている。「左ヒラメで右カレイ」といわれるように、あるいは「ムニエル・カレイに、塩焼きカレイ」(あっ、ちがうか)と言われるように、御存知カレイ類たちは非対称の体型である。
 全体の体型が対称的であっても、部分的に反相称をつくっている器官もある。鳥のメスの卵巣や輸卵管は左側にしか発達しないし、アヒルの鳴管はオスでは左側だけが大きくなるし、たいていの動物の内蔵は左右相称ではない。われわれの多くは心臓を左にセットするし、肺はだいたい右が大きい。
 これらの相称性と反相称性がいつ発現されるかというと、発生初期からのこともあれば、分化の途中もあって、まちまちである。けれどもそのような「形のルール」がそもそもどこに起源しているかといえば、やはり受精卵か遺伝子で決まっていたとしか考えられない。この受精卵時にすでになんらかの「形のルール」が発揮される特色のことを、「極性」(ときに軸性)という。
 しかし、その極性がさらにもともとはどのように決まったのかというと、まだわかっていないことが多い。

 受精卵には、その生理活性において卵の一方から他方に向かう不均一な分布(勾配)がある。一方を細胞質の多い核が近寄るので動物極といい、他方を発生のための栄養となる卵黄が多いので植物極という。この二つの極を結ぶ軸線上に発生していると仮定されているのが極性(polarity)である。
 極性には著しい特色がある。まさに著者が幼いセミの片方の翅に触れたことに関係してくるのだが、分極のおわった受精卵を左右に分離して二つにすると、それぞれが失った部分を補って二個体のカラダの全体をつくる。これは完全無欠のカラダになっていく。それなのに、動物極と植物極を分断するように上下に分離すると(人為的に切断すると)、まったく正常な個体がつくれない。こういうことが数々の実験で知られてきて、しだいに極性の役割が注目されるようになった。
 ようするに極性はカラダのデザインの決定的な設計図に深く関与しているらしいのだ。それも左右とか前後とか、表か裏かとかの、つまりは「背に腹はかえられるか」どうかの瀬戸際を決めているらしい。では、どの程度の決め手になっているのか、そのかかわりぐあいが難しくも、面白い。

「ここには朝というものはない」

ウニ卵を上下に横断する実験

 われわれを含めて動物のカラダは細胞分裂によって細胞の数をふやして成長し、それを維持している。すべては細胞の量の調整と維持にある。
 ところが、受精卵のばあいは次々桑実胚を分裂させて細胞の数を多くしていっても、いっこうに成長せずに、むしろ細胞はいずれも小さくなっていく。しかも動いていく。これは細胞が自分の役割を発揮するために何かの“目印”か何かの“レール”に従って、自分がどの器官をつくるかを決めるために移動しなければならないからである。
 この“目印”や“レール”がわかれば極性の中身もわかるはずなのだが、残念ながら目印もレールも見当たらない。しかし極性がはたらいていることだけははっきりしている。そこで、いろいろの仮説がたてられた。
 たとえば、①実はオーガナイザー(誘導体・形成体)というものがあって、それが仮に外胚葉となるべき部位に接触すると、そのときオーガナイザーと外胚葉の協同作用による器官の発生がおこるのではないか、②形態生成を促すモルフォゲンとでもいうべき化学物質がひそんでいて、それが位置情報を与える作用を司っているのではないか(これについてはレチノイン酸が有力な候補となった)、③胚葉には極性に関する“位置価”をもった“胚葉等高線”のようなものが隠れていて、それが胚の形成のときにむずむずと発現してくるのではないか、などといった仮説である。
 それぞれ一長一短があって、まだ正確な全貌はわかっていないらしいのだが、どんな仮説を採るにせよ、極性がなんらかのかっこうで生物における「背に腹はかえられない事情」をむずむずと決めているのは、たしかなことらしい。著者の指はその「むずむず」に触れたのである

 多くの動物のカラダには基本的に3つの極性があると考えられている。アタマとシッポの方向を決める頭尾極性(ぼくなら「徹頭徹尾性」とよびたい)、「背に腹をかえるか」どうかを決めている背腹極性(いいかえれば表裏性)、それに、カラダの左右対称性をつくっている左右極性である。
 これらの極性にはZAPとよばれる極性化活性部位があって、どうもビタミンAを含むレチノイン酸が機能して位置情報をマネージしているらしい。この位置情報をもった極性は、受精卵のときにおいても、完成したカラダになってからも、生きている。トカゲの再生はそれを雄弁に物語る。
 しかし、「生きている」といってもいつも極性がはたらいているとはかぎらない。大半の極性は特定の時期だけに発現される。ということは、これらの極性がモノをいう時間判断か状況判断かを決めている“時計”がどこかにあるということである。この“時計”が動いているときに何かの異常がおこると、極性が狂い、奇形になったり生命を危うくするようになっている。
 著者の指が幼いセミにさわったのは、セミがまだ極性をつかって薄い翅を伸ばそうとしている時だったのである。もう1分あとであれば、極性が死に、セミはどこを指でさわられても元気に飛んだはずなのだ。

 それにしても「発現」とはずいぶんデリケートなものである。それが生物のカラダのアイデンティティを決定するというのに、それが決定されるのはたいそうきわどい関係によっていた。
 細胞にはすべて同じ遺伝子が入っている。どの細胞もその遺伝子成分にはまったく変わりがない。それなのに、どれかの細胞の集まりが「背」になって、別の細胞の集まりが「腹」になり、また別の細胞どうしが神経系になり、肝臓になっていく。
 なぜなのか。どうやら極性は、どの細胞たちがどの位置に落ち着いたかを知ったうえで、細胞内の遺伝子それぞれにお前たちはいつ「発現」すればよいかの指示を与えているらしいのだ。その指示をもらわなかった遺伝子はそのままじっとしていることになる。
 本書の後半は、この極性と遺伝子の絶妙な関係を追う。ノッチ、デルタ、トルソ、トルソライク、ビコイド、スワロー、ナノス、オスカーなどといった、まるで宝塚の雪組・星組・花組を交ぜたような極性誘発遺伝子の名前も次々に挙がってくる。

 ぼくは本書を読んで、またもや従来からの確信に自信を深めたものだった。それは、心身ともにアイデンティティなんて位置と極性によってどうとも変わるもの――ということだ。
 ぼくはまったく汗をかかない体質だったけれど、45歳をすぎてからは首の後ろにすぐ汗をかくようになった。それも激辛カレーなどを食べてみると、最初に左の首筋にどっと汗が吹き出て、それから右に移っていく。その時間差はわずかだが、しかし決定的なのである。ほかにも似たようなことがいろいろおこっている。右向きに寝ていたのが左向きのほうが安定するようになったとか、受話器は左の耳にあてるものと思いこんでいたのに、あるとき代えてみたら、なんだ、右の耳のほうがよく聞き分けがきいていたとか、というように。
 「背に腹はかえられるか」でいえば、ぼくは厄年に胆嚢を摘出する手術を受けたのだが、その当時の手術ではお腹を両乳の下から真一文字に(臍だけは避けて)、臍下6センチまで切ってしまったのである。まさに割腹だった。これで腹筋はバラバラになり、おまけに手術が下手だったのか、みごとにケロイドの線条が残った。以来、腹筋にもうひとつ力が入らない。まあ、それも仕方がないかと思っていたのだが、ふと気がつくと腹で力を入れるところをつねに背中が肩代わりしているらしい。おかげですぐに背筋がはり、肩がこる。こういうことはしょっちゅうなのである。
 ついでながら、もうひとつ言っておきたいことがある。「ほらほらアイデンティティなんて、幼い頃に誰にどこを突つかれたかで何とでも変わるものだよ」ということを――。

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