林不忘
丹下左膳|上中下
同光社 1943
ISBN:4334736904

 長らく読めなかった。手に入らなかったからだ。
 そのあいだずっと、遠い日々の白黒映像に動きまわっている大河内伝次郎を、水戸光子が待っていた。大河内伝次郎は墨襟の白紋付に髑髏を染め抜いている。水戸光子は藍の万筋模様に小柳の半襟、媚茶の博多を鯨仕立てできりりと締めている。
 けれどもなかなか原作にお目にかかれなかった。結局、痺れをきらして古本屋で入手した。
 本書は「時代小説名作全集」全24巻のうちの3冊ぶんで、他に岡本綺堂『修禅寺物語』、長谷川伸『関の弥太っぺ』、大佛次郎『照る日くもる日』、野村胡堂『隠密縁起』、佐々木味津三『旗本退屈男』、三上於莵吉『雪之丞変化』に加えて、直木三十五・山手樹一郎・川口松太郎・村上元三といった大衆時代小説の横綱級の名作がずらりと顔を揃えていた。
 いまこういうものに熱中する読者がどのくらいいるのか知らないが、もしこのあたり一冊も読んでいないのだとしたら、そのくせ時代小説は司馬遼太郎このかたけっこう好きだというのなら、その不幸にこそ同情したい。岡本綺堂・長谷川伸・大佛次郎・野村胡堂・直木三十五・三上於莵吉、そして林不忘は、何を犠牲にしようと読まなくてはいけません。

 大河内伝次郎扮する丹下左膳は、ぼくの子供時代の絶対的ヒーローだった。もう一人いた。アラカンこと嵐寛十郎扮する鞍馬天狗である。こちらは覆面頭巾で馬に乗っている。丹下左膳は隻眼片腕の化け物だ。
 鞍馬天狗か丹下左膳かと言われると困るけれど、ともかく何度くりかえして真似をしたことか。それでものべつ「セイゴオちゃん、どっちが好きやねん」と、そんなことを聞く野暮な大人がいたものだ。
 丹下左膳は右腕がない。だから左手で棒をもつ。丹下左膳は右目もない。だから右目をつぶったり、手拭いで右目を覆ったりする。それで腰に紐を巻き、棒っきれを差し、左手でこれを抜く練習をする。これがなかなか難しい。何度も練習してやおら表の通りに出陣し、向こうからやってくる行商人の前でパッと抜いてみせる。「なんや下手くそな丹下左膳やな」。たいていは失敗である。
 それでもまた棒っきれを腰に収め、ふたたび抜いて、そこで大河内伝次郎の真似をする。「あわわわ、そいが苔猿の壷なのか、あわわわ」。母親はいつも笑いころげていた。笑われようと何されようと、そこに大人の相手がいれば、すわチャンバラである。新聞紙を丸め、呉服の反物の筒をもち、右目をつぶって左手で闘った。
 剣怪という言葉がある。林不忘の造語だろう。まさに丹下左膳はめっぽう妖しくて、異様に不死身な剣怪だった。

 その『丹下左膳』を文字でちゃんと読んでみたいと思ったのは、中里介山の『大菩薩峠』や国枝史郎の『神州纐纈城』を読んでからである。
 長らく読めなかったすえに、やっと林不忘を読んでみると、物語の急テンポな運びや人物の出入りの映画的なところもさることながら、その小気味よく省略のきいた文章にあっというまに巻きこまれていた。なんだこんなところに鏡花が覗いていたのか、ここから野坂昭如がおっとり刀で出てきたのかとさえ思わされた。うーぬ、お主、やるものだ。
 ともかく何にも捕らわれていない。うまいのではない。勝手気継なのに破綻していない。“操り文才”とでも名付けたい。おそらくは書き流しているのだろうが、その破墨・溌墨の調子をどこかで心得ている。お主、もてなし上手の使い手じゃな。
 舞台は徳川八代将軍吉宗の城内城下。そこに案配された手立ても器用にあしらっている。寒燈孤燭の城下町、達意の宗匠、人を狂わす金魚籖、これがいかにも高麗屋敷、ルソン古渡りの茶器、とんがり長屋の嬌声罵声、板張り剣道指南の道場の格子、大川端の邪険な風情、長襦袢から零れる下闇の奥‥‥。
 まあ通俗時代小説にはおなじみの手立てだが、そこへ「植物性の笑いがおこった」とか「人事相談にはなりません」とか「こんなこと昨今のアメリカでもおこらない」といった変な言葉が割りこんでくる。苔猿の壷が三阿弥の名物帳の筆頭に記載されていた天下の名器であることも、初めて知った。
 なにしろ久々に遊びまわれる読書となったこと、いまやすでに懐かしい。これが噂の大正昭和のエンタテイメントのキラリ抜き身の出現だったのである。

 林不忘が、実は牧逸馬であって、また谷譲次であることはいつのまにか知っていた。本名は長谷川海太郎。詩人長谷川四郎の兄貴にあたる。
 明治33年に佐渡に生まれ、父親が「函館新聞」の主筆となったので函館で育った。やけに海っぽい。大正7年にはさっさとアメリカに渡り、6年間を皿洗いやらホテルボーイやらギャンブルやらカウボーイやらをして、遊んだらしい。本当かどうかは、わからない。このテキサス時代の海太郎が谷譲次なのである。
 その谷譲次の『テキサス無宿』『めりけんじゃっぷ商売往来』はずっとあとで読んでみたが、これはとても林不忘と同一人物の作家が書いたとはおもえない文体だった。しかも「ジャップ」と揄われた日本人の無宿者(!)が、1920年代のアメリカの無知を笑っている。なんという無類の文意才々なのか。
 牧逸馬のほうは翻訳者としてのペンネームでもあったが、いくつか作品も書いた。けれどもぼくは、『この太陽』『新しき天』などの、そのころ一世を風靡したという家庭小説は読んではいない。林不忘と谷譲次でも十分すぎる。

 それにしても三様のペンネームを適宜に駆使して、それをそれぞれまったく別様の文体と物語に書き分けてみせるというのは、ぼくもペンネームを使い分け書き分けるのができないわけではないけれど、やはりよほどの技芸者だ。いや、長谷川海太郎においては武芸者の遊びにこそ近い(第517夜にぼくの昔のペンネーム一覧をリークしておいた)。
 世の中の編集者も編集者、負けてはいなかった。おそらくは世界出版史上でも前代未聞の『一人三人全集』というものを、新潮社が昭和8年に全16巻で刊行してみせた。それを縮めて、河出書房新社が昭和40年代に6巻集に仕立てたというのだが、これは残念ながら見ていない。新潮社、お主、やるではないか。

 長谷川海太郎が原稿を書きはじめたのは、プラトン社の「女性」や「苦楽」であったようだ。
 プラトン社は第364夜の直木三十五のところで少々案内しておいたように、化粧品会社の中山太陽堂が小山内薫や川口松太郎を顧問に、山六郎・山名文夫・橘文二の意匠と岩田専太郎の挿絵を擁した出版社、「女性」「苦楽」はそのころ巷間を唸らせた大正末期の名物女性雑誌のことである。大半の作家文人を籠絡し、幸田露伴には十五円もの原稿料を払っていた。例の改造社の円本が出てきて、凋落していった。
 しかし海太郎の才能を“発見”したのは中央公論社の嶋中雄作のほうである。嶋中は「婦人公論」の投稿原稿を見て、林不忘として『新版大岡政談』を書かせてそそのかし、特派員として豪勢にもヨーロッパ旅行をさせている。海太郎はこういう待遇にはすぐ応えるほうで、谷譲次となってはメリケンものを、牧逸馬となっては家庭小説と実録ものを、まことに器用に書き分けた。
 そのドキュメンタリーな実録ものをぼくは読んではいないけれど、五木寛之は牧逸馬名義のドキュメンタリズムこそおもしろいと言い、中田耕治は牧逸馬こそが自分にルクレツィア・ボルジアの耽美陰惨な生涯を教えてくれたのだと告白している。
 それで丹下左膳であるけれど、この妖怪剣豪は『新版大岡政談』のワキに出ていた忘れがたい剣客なのである。それがいつしかシテに躍り出て、「苔猿の巻」「濡れ燕の巻」「日光の巻」の奇想天外の連作になったのだった。海太郎どの、お主、ずいぶん楽しませてくれたものじゃのう。あわわ、あわわわわ。ギラッ、ズバッ。

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