才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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薔薇十字団

クリストファー・マッキントッシュ

平凡社 1990

Christopher McIntosh
The Rosicrucians 1987
[訳]吉村正和

 手元から消えているので詳しいことはわからないのだが、ぼくが最初に薔薇十字団のことを知ったのは、澁澤龍彦の何かの本での言及と種村季弘の『薔薇十字の魔法』によるものだったと憶う。
 さらに詳しく知ったのは、ロンドンのフランセス・イエイツのところにぼく自身が赴いてからのことで、そのころのことは第417夜のところに、少しだけふれてある
 しかしイエイツの薔薇十字団に関する該博な知識(『薔薇十字の覚醒』)は薔薇十字運動の初期のもので、とくに神聖ローマ帝国内のプロテスタンティズムがイギリスに及ぼした特異な影響の周辺に限られていて、ロバート・フラッドやフランシス・ベーコンやデカルトとの関係を暴いて興奮に満ちてはいるのだが、必ずしも全貌には及んでいない。

 なぜなら薔薇十字運動の謎は、そもそも古代グノーシス主義にさかのぼり、ヘルメス学やカバラやルネサンス魔術の変遷をへて17世紀初頭の「宣言」に至り、かつその後も幾多の言動と結社活動と結びついたり離れたりしながら、またフリーメーソンとの関連を何度も匂わせながら、さらに20世紀になってはナチスが薔薇十字を嫌ったことにまで及んだのである。
 薔薇十字の封印はずっと生きつづけていたというべきなのだ。まことに不気味にも――。
 そればかりか、ウィリアム・ブレイクもW・B・イエイツも、ルドルフ・シュタイナーもC・G・ユングも、薔薇十字の深遠なシンボリズムには多大な関心を寄せていて、文学的なメタ・アーキテクチャとしても、ヨーロッパの独自のヴィジョンとしても、つねに軽視できない話題を提供しつづけた。
 また20世紀の実在のオカルト集団としては「黄金の夜明け教団」がその中心的な密儀に薔薇十字の魔術を採り入れて、この教義がまだまだ休火山にはなっていなかったことを告げた。

 こういう薔薇十字団の放った妖しい動向は、やはり歴史的に捉えてみないと、どうも掴めない。本書はそうした時代をまたいだ薔薇十字幻想の動向をめぐる渇望に、僅かながらも正面きって応えた一冊だった。
 著書のクリストファー・マッキントッシュは、その名前からするとなにやらあやしそうではあるが、そういうことはない。オックスフォード大学やロンドン大学で文学修士や博士となったイギリス人の研究者で、幅広い学術編集活動を通して、占星術や魔術史や白鳥伝説やエリファス・レヴィなどに関する数多くの書物を著した。本書も実によく書いてある。

 ざっとかいつまんでおこう。
 最初の問題は、ゲーテの「十字架に薔薇をからませたのはいったい誰か」という疑問にこたえるためにある。
 歴史上の薔薇十字団の出発は、ドイツのカッセルで1614年とその翌年に出版された2冊の秘密パンフレットに由来する。これはクリスティアン・ローゼンクロイツなる人物が創設した「友愛団」の存在をあきらかにするためのもので、それぞれ『称賛すべき薔薇十字団の名声』および『友愛団の告白』というタイトルがついていた。神秘主義ギョーカイでは前著を「ファーマ」、後著を「コンフェッシオ」とよぶ。まとめて「宣言」ともいう。
 いまではクリスティアン・ローゼンクロイツなる人物は架空の者だということがわかっている。だからこれらは他愛のない偽書でおわってもよかったのだ。
 ところが1616年にドイツ語で綴られた『クリスティアン・ローゼンクロイツの化学の結婚』という物語形式の一冊が世に出るにおよんで、この幻想文学めいた物語が匿名で出版されたにもかかわらず、その影響は燎原の火のごとく波及した。1614年から1620年のあいだのたった6年間だけで、なんと200以上の文書が乱れ飛んだのだ。それでどうなったのかというと、一言でいえば、薔薇十字団が“実在”することになったのだ。
 しかも、「ファーマ」と「コンフェッシオ」と「化学の結婚」は一人の人物、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエによってすべて文書化されていたことがあきらかになった。

 ヨハン・アンドレーエという男は誰なのか。
 この男はなぜにまた「クリスティアン・ローゼンクロイツが薔薇十字を象徴とする友愛団をつくった」などという、とんでもない空想を綴ったのか。
 いや空想だけなら、稀代の幻想文学の傑作として終わってよかったのである。ところが、そうはならなかったのだ。アンドレーエ自身も、これらを物語に終わらせるつもりがなかったようだ。

 フランセス・イエイツもそういう叙述をしていたように、アンドレーエの祖父のことから入ったほうがわかりやすいだろう。
 祖父はカトリックから改宗したプロテスタント運動の指導者で、“ヴュルテンブルクのルター”として知られている。テュービンゲン大学の学長も務めた。18人の子がいて、その7番目の子にやはりルター派の牧師が登場し、錬金術に強い関心をもった。その錬金術的牧師の子がアンドレーエだった。
 時代背景と文化地理をちょっとだけ覗いておくと、テュービンゲンはネッカー川を望む美しい大学都市で、ヴェルテンベルク公フリードリヒ1世が慎ましい宮廷文化をつくっている。ただし、この町はプロテスタントに溢れていた。
 近くのオーストリアはハプスブルグ家に司られた神聖ローマ帝国型のカトリックである。帝都プラハには魔術好きの帝王ルドルフ2世の異様な文化が栄えていて、複数宇宙論を唱えたジョルダーノ・ブルーノ、ヨハネス・ケプラー、エリザベス女王を操ったジョン・ディーなどが頻繁に訪れていた。
 プロテスタントのテュービンゲンと、魔術的ではあるがカトリック・ルネサンスをまだ継承しているプラハ。この二つのあいだは、それでも緊張のない温和な関係がつづいていたのだが、フリードリヒ2世の反宗教改革がおこってからは、ここに歪曲と対立と越境が始まった。
 アンドレーエはそういうテュービンゲンで、父の錬金術志向を浴びながら育ったのである。

 父を継いでルター派の牧師となったアンドレーエは、17世紀に突入しつつあった巨大な時代変化を感じていた。
 そこで「テュービンゲン・サークル」に入り、新たな時代を築くにはプロテスタントとカトリックを相互に越境できる理想の王国をつくることをしだいに夢想するようになる。テュービンゲン・サークルの中心には、クリストフ・ベゾルトという異能の者がいた。ヘブライ語をふくむ9ケ国語に通じ、グノーシス主義・カバラ・錬金術に長けていた。だいたいこういう男が事態を輻湊させていく。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイ』の脇役のように。
 案の定、アンドレーエはベゾルトに感化され、最初は有名なユートピア物語『クリスティアナポリス』などを書いていたのだが、やがて“秘密の結社”という魔力に取り憑かれる。アンドレーエは最初は1577年に創設された「親友協会」に関心をもち、ついで17世紀に入って創設された「豊饒協会」に、さらにはそれが改組されて発展したらしい「椰子協会」に出入りする。
こうした協会の幹部たちはたいてい鉱山の所有者か精錬業者の親玉たちで、その錬金術っぽい思索と方法の成果が「アーカ」とよばれる秘筥に保管されていた。かれらは“黄金生成”を夢想していた超技術集団だったのだ。

 アンドレーエが、クリスティアン・ローゼンクロイツなる人物が薔薇十字を戴いた友愛団をつくったという空想物語を思いついた背景で事実としてわかることは、とりあえずここまでである。
 したがって、薔薇十字団という秘密結社が歴史的に“実在”していたという証拠は、ここまでのところは、まったくない、しかしながら、それが歴史の中でだんだん“現実化”していってしまったのだ。なぜなのか。
 たしかにアンドレーエは、この物語を巧妙にでっちあげた。以下にごくおおざっぱな概要をしるしておくが、これではみんな騙されるにちがいない。

 そもそもクリスティアン・ローゼンクロイツは1378年のドイツ貴族の生まれだと書いてある(この年代はカトリックのシスマがおこり、ニコラ・フラメルの錬金術が形づくられた時期にあたる。ヨーロッパ人からは一番遠くて、わかりにくい設定になっているのが、やはり巧妙だ)。
 16歳で聖地巡礼を企て、キプロスで指導者に出会ったが死に別れた。そこでやむなく一人で旅を続け、ダマスカスでアラビアの賢者に出会い、エルサレムに向かうことを放棄して(こういうところがうまい)、イエメンの町ダムカールに入った。
 ここでローゼンクロイツはアラビア語による知識をことごとく習得し、『Mの書』のラテン語訳にとりくんだ(こうした幻の書を巧みに入れている)。3年後にエジプトに赴いて植物と動物の研究に熱中し、『Mの書』の研究者が集まるというフェズに行き、アデプト(達人・賢者)の知を存分に吸うと、その後はスペイン経由でドイツに戻り、広大な館をたて、そこで哲学と数学と自然学の研鑽に入った。
 やがてローゼンクロイツの噂を聞きこんだ同士や同朋が訪れるようになり、ここに「友愛団」の原型が生まれた。ローゼンクロイツは暗号言語(!)を考案して、さらに象徴的なパビリオン「聖霊の館」を建設する。やがて仲間をよく選ぶと、6つの規則をもって次々に世界に散るように命じた。
 6つの規則が、なかなか奮っている。
 ①行き先の滞在国の習慣に従うこと(こういうところもうまい)、②けっして特別な衣裳を着用しないこと、③印章として「R・C」のグラフィック・パターンを用いること(これが薔薇十字)、④無報酬で病人や貧者の治療にあたること(徹底したボランティアの哲学なのだ)、⑤年に一度だけ「聖霊の館」に集合すること、そして最後に、⑥むこう百年にわたって友愛団の存在を秘密にしておくこと、である。

 アンドレーエの作為による物語はまだ続く。
 そのうち2点を示しておく。ひとつは、『化学の結婚』に書いてあることだが、謎の人物クリスティアン・ローゼンクロイツは晩年になって山腹の洞窟に入り、復活祭の前夜に天使が降りてきて不思議な記号を届けるというふうになっていく。ローゼンクロイツは決意してまた旅に出る。ここで3本のヒマラヤ杉、赤い薔薇を挿した帽子、賢者の石、金羊毛、風神メルクリウスなどの、数多くのシンボリック・アイコンが次々にあらわれる。のちにユングが異常な情熱をもって分析した集合的無意識を象徴する寓意に満ちたものばかりである。
 もうひとつは、ローゼンクロイツの死後、墓所がしばらくわからなくなったのだが、その墓所が「隠し扉」とともに(こういうところも沸かせるところなのだ)、館の跡から発見されたというふうになっていく。そこは神秘的な丸天井の地下埋葬所で、円形の祭壇には遺骸が安置され、片手に羊皮紙に金文字の書物を持っている。その書物の文章は末尾がすべてラテン語になっていて、どうやらその内容は世界の縮図が綴られていたはずなのである。
 しかし、この墓所が発見されたあと、そこはふたたび閉じられ、いまは同士たちの子孫が世界に散っているはずなのだ‥‥。

 なんともまことに探求心をそそる物語になっている。
 ローゼンクロイツの実在性を匂わせるのもさることながら、それだけではなく、たとえばパラケルススは薔薇十字の友愛団と似たような考え方をもっていたが、その盟約には入らなかったといったような、まことしやかな経緯をあれこれ書きこんでいるため、ついつい本気にさせられる(実際にはパラケルススが薔薇十字に関心を寄せたのではなく、アンドレーエがパラケルススの影響を深くうけて薔薇十字を思いついたのである)。
 子孫がいまも散っているというのも、この手の伝承では絶対に欠かせない。
 ただし、ゲーテが投げかけた「十字架に薔薇をからませたのは誰か」という疑問については、その仕掛けのすべてがヨハン・アンドレーエだったというわけにはいかない事情がある。
 なぜなら、アンドレーエは当時知りうるかぎりの神秘的知識を古代からも中世からもルネサンスからもブラウジングして、これを徹底的に編集加工していたからだ。そこにはおそらく多くの編集団がいたのではないかとおもわれる。

 アンドレーエが『化学の結婚』のなかで書いた神秘思想は、その淵源をグノーシス主義にまでさかのぼることができる。
 グノーシス主義についてはいずれ別の書物の紹介を通して書いておきたいとおもっているが、ごく簡単にいうと、紀元前4世紀ころのエジプトに芽生えたとおぼしい融合力に富んだ神秘哲学で、宇宙の本質を霊魂と物質に二元的に分け、物質世界はデミウルゴスという下位の神性による創造であるが、人間に宿った知的な精神世界は宇宙的な霊魂そのものが分出させたものであるから、人間の「知」はいつしかデミウルゴスの頸城を破って宇宙霊魂と人間精神が重なる方向に向かって融合するであろうと説くものだ。
 この融合の兆を継げるメッセージが「グノーシス」とよばれるもの、すなわち「霊知」なのである。グノーシスは天界から人界に洩れてきた兆候でもあった。
 霊知についての予告は、その後、ヘルメス・トリスメギトスの著作とともに(これがいわゆるヘルメス文書=むろん偽書とされている)、後世に伝えられたというふうになっている。
 その後のグノーシス主義はヘルメスの知を媒介に、ピタゴラス主義、新プラトン主義をへて、さらにユダヤ教カバラの神秘思想に結びつき、これらが総じてルネサンスの中で復活再生させられた。そのときのプロデューサーはコジモ・ド・メディチ、ディレクターはマルシリオ・フィチーノ、編集拠点は「プラトン・アカデミー」と名付けられた
 ここからフィチーノの弟子のピコ・デラ・ミランドラなどが輩出していった。いずれも「汎知学」ともいうべき「霊知」を求める探求である。

 やがて、これらがドイツに飛び火する。
 もともとドイツは、1190年代にヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィファル』(この物語は『化学の結婚』といくつもの共通点をもつ)に見られるような「聖杯伝説」と、神秘的で使命感に富んだ「騎士団の伝統」をもっていた。
 そこにグノーシス主義やカバラや錬金術が加わって、ロイヒリンやアグリッパやパラケルススといった傑出した神秘化学思想ともいうべき蓄積をつくっていったから、たまらない。いっさいの神秘の対象が身体的にも宇宙論的にも現実味を帯びたのだ。
 アンドレーエは、仲間たちとともにこれらすべてを編集加工したといってよい。
 とくにこのような汎知的なグノーシス主義の成果が薔薇十字団の思想に便利なのは、人間の知はデミウルゴスによって幽閉されているものの、それがいつかは突破されて神の英知と融合するというふうになっているところである。

 いささか話が壮大になってきたが、いずれにしてもアンドレーエは架空の人物クリスティアン・ローゼンクロイツによる汎知の体系を継承しただけでなく、それをさらに継承するための薔薇十字団の構想をまんまとつくりあげたのだった。
 すでにのべたように、アンドレーエの3つの文書が出た直後からの6年間だけで、薔薇十字団の噂があっというまにヨーロッパ中に広まった。むろんこれを怪しむマラン・メルセンヌ神父やガブリエル・ノーデといった知識人も少なくなかったが、イギリスのロバート・フラッドや化学者ロバート・ボイルやSF文芸の始祖ともいえるジョン・ウィルキンズらが、またドイツの錬金術師ミヒャエル・マイアーがそうであったように、薔薇十字団を実在の秘密結社とみなす者ははるかに批判者を上回っていった。
 もはや薔薇十字団と薔薇十字運動は、すべての西欧神秘主義の宿命を担ったままに一人歩きしてしまったのである。
 理由は難しいところにあるわけではない。
 この時代、たとえばアイザック・ニュートンがそうなのだが、錬金術はまさに科学の魂であったのだし、まだヨーロッパには各国語が確立していないために、あらゆる言語文字表現はその大いなるルーツを争っていたのである。つまり神秘を取りあっていたのだ。すなわち、すべての科学と言語学と地理学と神学が、どちらにせよ薔薇十字的な思索と仮説と探求の中にごった煮になっていたわけなのである。当然に、薔薇十字の物語はかれらの関心の的になっていったものだった。

 18世紀になっても、この蠢動は収まらなかった。マリア・テレジアのウィーンには1万人の錬金術師がいたとされるのだが、そこではあいかわらず薔薇十字団の噂はもちきりであり、ときに霊液を呑んでいるといったサン・ジェルマン伯爵のような奇怪きわまりない人物があらわれると、たちまち薔薇十字団の隠れた本拠がそのへんにあるらしいというふうになっていったのである。
 そこへフリーメーソンの運動が絡んでいった。1717年にロンドンにグランド・ロッジが結成されると、フリーメーソンの活動にいくつものロッジと会員が生まれるのだが、それがたえず薔薇十字団との類縁関係を取沙汰された。さらには金属変成を好んだというテンプル騎士団の末裔がここに交ざっていった。
 これではもはや、とうてい収拾がつかない様相である。
 薔薇十字運動が退嬰しなかった理由が、もうひとつある。それは理性主義や啓蒙主義の台頭によるムーブメントにあきたらない人士を、「反理性」のサークルとして巻き込んだという事情である。どうみても「理性」と「霊知」は対立する以外になくなっていた。理性に反抗する「知」の多くが薔薇十字派とみなされるにいたったのだった。

 こうして、フリードリヒ・ヴィルヘルム公のような、フリーメーソンであって薔薇十字団の会員となったとされるような王侯貴族たちが、ついに薔薇がからまる十字のシンボリズムの内側に入ってきた。ヴィルヘルム公はよく知られているように、アマデウス・モーツァルトの庇護者であった。
 加えてドイツ・ロマン主義の夜陰の波涛のようななだれこみがある。それらは必ずしも薔薇十字の思想を標榜するものではなかったけれど、薔薇十字的なるものを否定したり迫害するものでもなかった。ゲーテの『ドイツ移民の神秘の物語』やシェリーの『セント・アーヴェンあるいは薔薇十字団員』にみられるように、薔薇十字幻想はあたかも民族の記憶や地域の伝説として、欠くべからざるものにさえなったのだ。
 ゲーテの『ファウスト』第2部がアンドレーエの『化学の結婚』からいくつものコントを得ていたことは、すでに何度となく指摘されてきたことだ。

 もっと書きたいことがいろいろあるけれど(とくに19世紀や20世紀の継承について)、いささか長くなってきたので打ち止めにするが、とにもかくにも、一人のヨハン・アンドレーエが仕掛けた物語の装置が、ここまで肥大していったという例は歴史的にもまことにめずらしい。
 なんといってもかなり多くの神学者・哲学者・化学者が歴史的に巻きこまれていったことが、特筆できる。デカルト、コメニウス、ベーコン、ゲーテはもとより、かのライプニッツさえ薔薇十字問題には注意を払ったのである。イエズス会が薔薇十字団の隠れ蓑だといわれた時期もあった。
 いったい、このような幻想をルーツと綯い交ぜにしながら、人々が「霊知」を求めるという恰好をとるというのは、何の性向なのだろうか。
 話を、いつの時代だって神秘主義というものは廃れないものなのだ、などというふうに片付けることはできないだろう。それなら、古代このかたの神秘主義は等しく今日まで横並びにどこかで“店頭公開”されているはずなのである。そうではなく、薔薇十字の幻想はつねに「何かの代わり」として、あるいは「何かの組み合わせの相手」として、多様な局面にあらわれてきたのだ。どうも、そのように見たほうがいいように思われる。
 そうだとすれば、薔薇十字とは、われわれがたえず置き去りにしてきた「何かの補償性」のようなものなのだ。
 そこをよくよく考えたほうがよいのだろう。少なくともいたずらに、現実政治や思想論争で「賢者」を気取ったり、「悪」を指弾するよりは、そこを考えたほうがいい――。

参考¶薔薇十字団あるいは薔薇十字運動についての本格的研究はまことに少ない。すでにのべたようにフランセス・イエイツの『薔薇十字運動の覚醒』(原著1972・翻訳1986工作舎)は初期の実情研究で、種村季弘の『薔薇十字の魔法』(1975出帆社)は中世から近世にかけてのオカルティズムの特質そのものを扱っていて、詳細な個別研究ではなかった。またルドルフ・シュタイナーに『薔薇十字会の神智学』(平河出版社)が、マンリー・P・ホールに『カバラと薔薇十字団』(人文書院)があるものの、これらも神智学的展望や神秘主義的象徴哲学に重点があって、歴史の中の運動に焦点が当たっているわけではない。そうしたなかで、歴史を扱って、かつ入手しやすい2冊が翻訳出版された。ひとつがロラン・エディゴフェルの『薔薇十字団』(白水社・クセジュ文庫)で、もうひとつが本書である。なお本書にはコリン・ウィルソンのオカルト現代史から眺望した序文がついている。