高野正雄
喜劇の殿様
角川叢書 2002
ISBN:4047021229

 益田太郎冠者。この風変わりで愛すべき傑物を紹介したくて、本書をとりあげる。
 その前に著者について一言。著者は毎日新聞の学芸担当記者だった。そのころ晩年にさしかかっていた獅子文六(岩田豊雄)に益田太郎冠者についての小説を連載してもらうつもりが、構想のまま連載開始以前に獅子文六が亡くなってしまった。そこで、いわば遺志を引き継いだかっこうで、「益田太郎冠者伝」としての本書をまとめた。
 その著者もいまはいない。

 で、益田太郎冠者である。きっとこの名前がピンとくる人はほとんどいないのではないかとおもう。
 この人は鈍翁益田孝の長男で、慶応義塾を出たのちいくつかの会社役員をへて、台湾製糖の社長となった。昭和17年までが社長、そのあと会長をしながら、さらにペニシリン製造のための新日本興業を設立した。だから日本を代表するれっきとした実業家としての顔が表向きの“本職”である。
 本名は益田太郎という。
 ところが、この表向きの“本職”よりも、別の仕事が途方もなくユニークだった。それがペンネームに太郎冠者などというふざけた名前がついている理由になるのだが、劇作家だったのである。それも明治末年の帝国劇場とともに登場した劇作家だった。いや、あとで説明するように、劇作家というのもちょっと当たらない。その戯曲のすべては喜劇や笑劇であって、しかも落語も作ったし小唄や都々逸も作った。それだけでなく、日本のボードビル・コントの原型や宝塚歌劇につながるレビューの原型も作った。
 つまりは近代あるいは現代日本の「お笑い」の基礎工事をほとんど一人でなしとげた傑物なのだ。それなのに、いまはまったく忘れられている。ぼくはこういう事情がどうにも許せないタチなので、無理やりでも紹介したいのだ。

 簡単に生い立ちをいっておくと、益田太郎は明治8年(1875)に三井物産をつくった男爵益田孝(のちの鈍翁)が構えた品川御殿山に生まれた。敷地1万2000坪、ジョサイア・コンドル設計のいわゆる「碧雲台」である。住み込みの使用人だけでも30人はいた。
 近代の大数寄者の鈍翁の子だというだけで、なにやら只ならないが、実際にも屈託なくというのか野放図というのか、べらぼうなスケールで育ったことは想像通りで、中学生のときに両親不在の時をみはからって品川芸者数十人を呼んで騒いだ。両親はこれは放っておいては何をするかわからないので、イギリスのケンブリッジ・スクールに留学させる。日清戦争勃発直前のことで、南方熊楠がロンドン在住の日本人に祖国への献金を呼びかけていた。漱石がロンドンを訪れた10年も前にあたる。
 8年にわたるヨーロッパ留学をへて、太郎冠者は横浜正金銀行へ入行、結婚後に日本製糖の常務となり、明治39年に台湾製糖の取締役になった。このころから益田太郎は太郎冠者のペンネームで戯曲に手を染めはじめている。
 最初から喜劇ばかりを書いていて、本郷座の高田実一座がそのうちの『高襟(ハイカラ)』を上演した。これが舞台デビュー作。ついで川上音二郎のための『玉手箱』や『新オセロ』(大いに話題になった)を書き、さらに伊井蓉峰・河合武雄らのために『思案の外』や『女天下』などを発表、次々に上演された。
 ここからは一瀉千里、太郎冠者は一気に劇作家としての“顔”をもつようになった。

 そこへ大きなエポックメーキングな事態が出現する。明治44年の帝国劇場の開場である。
 日清日露に戦勝して列強に仲間入りしつつあった日本は、世界に“グローバリズム”の成果を示す必要に迫られていた。鹿鳴館のようなとってつけたものではまにあわない。そこで、伊藤博文・西園寺公望・渋沢栄一・益田孝・林薫以下のお歴々が挙って動いて、フランス・ルネサンス様式の地下1階地上4階の白煉瓦造りの堂々たる劇場を用意することになった。定員1700名はすべて椅子席、芝居茶屋も出方制度もない純然たる欧州様式である。これを準備から5年をかけて完成させた。
 この「帝劇開場」については、ぼくは以前から関心があって、いくつも資料をあたってきたが、まことにおもしろい。が、ここではそのへんの事情を話すことは我慢して先に進むと、ともかく帝劇づくりは国策ともいうべきもので、錚々たる人士がかかわった。重役には西野恵之助・大倉喜八郎・福沢桃介・日比翁助・田中常徳・手塚猛昌、そして益田太郎冠者が選ばれた。
 さっそく歌舞伎界からの引き抜きが始まり六代目梅幸を座頭に、七代目宗十郎・七代目幸四郎以下の一座が組まれ、長唄お囃連中も揃えた。これはいわゆる「旧劇」を支えた。
 しかし、「新劇」はどうするか。
 なんといっても女優がいなかった。そのころ女優といえる女優は川上貞奴ただ一人。島村抱月が立ち上がってトルストイやイプセンに挑戦し、芸術座を組んで松井須磨子を育てたが、それでは足りない(それに二人は若くして倒れた)。なんであれ本格的な女優を何人も育てる必要があった。
 こうして、貞奴の指導のもとに帝国女優養成所が開設される。この開設にあたっては、貞奴の“果敢”と川上音二郎の“侠気”によるところが大きかったが、二人は忙しすぎた。10カ月で貞奴の手を離れて、養成所は帝劇の管轄に移された。
 ここで大役を任されたのが太郎冠者なのである。
 太郎冠者はさっそく女優のための演劇を手掛け、『渡辺』『出来ない相談』『心機一転』『珍竹林』『唖旅行』『ふた面』『ラブ哲学』など、喜劇を連打する。かくて日本に次々に洋風女優が生まれていった。森律子・村田嘉久子・河村菊枝・佐藤ちゑ子などの“帝劇女優”である。太郎冠者が育てたようなものだった。とくに森律子は知る人ぞ知る、太郎冠者の終生の“恋人”だった。

 勢いをえた太郎冠者は企業重役のかたわら、猛烈豊饒な劇作活動に入っていく。会社のほうは“夕方出社”が多く、そのあとも接待担当重役のようなもの、人を驚かす趣向による宴会演出に余念がなかった
 たとえば、柳橋の「亀清」では2階の座敷をぶっ通して畳をあげて隅田川の土手に見立て、本物の桜の枝に造花をちりばめて一夜の春爛漫を演出し、日本橋の「蜂龍」では招待状に「会場は大阪新町の松月楼」と偽って客を東京駅に集合させ、そこから新橋で降ろして「蜂龍」へ。着いてみると、看板が「松月楼」となっていて、しかも出迎えたのが大阪新町の芸者衆と幇間たち。一同唖然としていると松月楼の団扇が配られ、座敷では自作の芸者劇が始まるという案配なのである。
 こんな調子だったから、太郎冠者の企業人としての評判も演劇人としての評判もめちゃくちゃなもので、まだ若かった小山内薫などは太郎冠者の舞台を「国辱ものだ」といきまいていたらしい。しかし、台本の梗概を読んでみるかぎり、かなりアイロニーに富んでいてけっこうおもしろい。コントとしては戦後の浅草喜劇を完全に先取りしていたし、のちの新喜劇の先駆にもなっている。

 こういう“成果”から、また落語にも真っ先に創作をもちこんだところから(円左・円橘・円馬・柳橋を贔屓にし、かれらが太郎冠者の創作落語を得意にした)、ついつい益田太郎冠者を近代日本の「笑い」の確立者とみなしたくなるのだが、太郎冠者の迸る才能はお笑いだけにとどまってはいなかった。
 宴会の趣向を凝るのは江戸吉原の宴の原型をつくった英一蝶をおもわせるし、ナマの管弦楽付きのレビューも創始したのは小林一三の宝塚はむろん、戦後の菊田一夫さえ凌駕した。8年にわたるヨーロッパ体験がフルに生かされたのだ。
 しかし、ぼくがさらに感心しているのは、やっぱりその徹底した「遊び心」というものだ。
 たとえば邦楽。
 これが尋常じゃない。三味線は十三世杵屋六左衛門に手ほどきをうけ、常磐津は当時名人とうたわれた二世常磐津三蔵に師事した。太郎冠者の腕を疑った者がお座敷で三味線を所望したところ、「春雨」を披露したのち、それをなんなく逆に弾いてみせ、その場の女将や芸者衆をびっくりさせたというエピソードものこっている。
 だから俗曲百般、なんでもできた。小唄もいろいろ作っている。作っているどころか、太郎冠者の“専属歌手”がいて、「俗曲・朝居丸留子秘曲集」というレコードにもなっている。芸者の丸子である。

 邦楽と洋楽を“合体”させて遊んだのも、太郎冠者が初めてではなかったかとおもう。有名な洋式小唄「コロッケの唄」の作詞作曲をはじめ、本書を読んでおどろいたのだが、ずいぶん多くの実験作を試みている。
 紙幅の都合でたったひとつしか紹介できないのが残念だが、「女の一生」と題したこんな和洋“編集”小唄のようなものがある。

  おぎゃあ ねんねこ おころりよ ①いつしか年も すぎのとを ②見染めて染めて はずかしの ③高砂や この浦舟に帆をあげて ④仲人を入れて祝言も ⑤三千世界に 子をもった  親の心は みなひとつ 老となるまで末広を なんまいだ なんまいだ ⑥欲ばらしゃんすな 夢の世の中

 最初は子守歌ふうで、①は「仰げば尊し」のメロディ、そこから一転、②常磐津の「将門」となり、③で謡曲、④は端唄、⑤は義太夫「先代萩」のフリ、そして⑥では小唄がつづくというふうになっている。あまりにも絶妙だ。

 ともかく太郎冠者はどんなものにも“戯作三昧”に徹して、かつ遊びきっている。それを自分にもあてはめていた。
 自宅では和服白足袋で、外出するときは毎日洋服を取り替えた。誂えは丸ビルの中の「丸山洋服店」。ネクタイも軽く100本を用意していた。眼鏡は松島眼鏡店で20個、ゾーリンゲンの剃刀も20本を揃えていて、銀座の理髪店「米倉」にいつも研ぎをさせていた。ヘアローションは英国製の「パンドラ」、香水が「ホワイトローズ」だったことも記録にのこっている。
 しかも太郎冠者は、酒をほとんど嗜まない。一口だけ口にする程度で、あとはシラフで遊びきる。酒の勢いをかりるのが大嫌いだったのだ。そこがものすごい。だから家やカフェでは静かに紅茶をたのしんだ。
 こういう男がいたのである。
 昭和28年(1953)まで小田原で悠々自適、近くに森律子を住まわせて、家族ともども好きな女とも存分に遊びきった。77歳の大往生である。遊びをせんとや生まれけん、学びをせんとや生まれけん。

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