アルチュール・ランボオ
イリュミナシオン
角川文庫 1951
ISBN:4042015018
Arthur Rimbaud
Les Illuminations 1875
[訳]金子光晴

 ランボオは安政元年に生まれて、明治24年に死んだ。明治維新をまたいだフランス人である。小泉八雲や岩崎弥太郎の4つ下、坪内逍遥や内村鑑三の5つ上になる。
 ランボオが16歳のとき、明治3年にあたるのだが、フランスでも時代を揺るがす大変動がおこっていた。ナポレオン3世とプロシアのあいだで戦闘が開始され(普仏戦争)、パリが包囲された。それが9月で、その直前の8月に、ランボオはシャルルヴィル高等中学校の授業を抜け出して敵軍の包囲網を夢中でかいくぐり、戦乱のパリに立った。
 このときのランボオは無銭乗車の科で逮捕され故郷に送り返されている。が、17歳でふたたび出奔。今度はパリ・コミューンに沸き立つパリをうろついた。大佛次郎が『パリ燃ゆ』に描いたパリは、ありとあらゆる思想と矛盾と人間が噴き出ていた。フランスの近代は、日本の近代が明治維新ではなく西南戦争に始まったように、フランス革命に始まったのではなく、このブランキズムの矛盾に満ちたパリ・コミューンに始まったのだ。
 そして、ここでアルチュール・ランボオの大半の革命思想と言語思想は燃え尽きていた。
 けれども、あと2年だけ、ランボオは詩人であることに時間を割いた。そして詩を捨て、パリ・コミューンにはなかった「世界」に向かって、大歩行者になった。

 こういうランボオを読むことは、ランボオの正体がわかるまでは過読をつくる。そして、このような過読こそが青春の蹉跌としての読書というものなのである。
 ぼくのばあいは、金子光晴のランボオだというところが、ぼくの自慢だった。過読の原因となった。角川文庫のランボオ詩集は昭和26年に版行されているから、それまでに小林秀雄のものも鈴木信太郎の『地獄の季節』も岩波文庫になっていたのだろうとおもうのだが、ぼくは金子光晴にこだわった。
 早稲田のフランス文学科に入って、やっとアーベーセーを習い、最初にぼくが浸ったことは、前にもちょっと書いたが、早稲田大学新聞会に入ること(ここは革マル派の巣窟だった)、アジア学会に参加すること(ここには松田寿男の丹生とシルクロードが待っていた)、劇団素描座でアカリの修行をはじめること(ここでは上野圭一が咥え煙草で演出していた)、そして、大隈講堂から文学部に行く途中に古い店を構えている「フランソワ」と「ヴィヨン」という喫茶店に入って、珈琲をのみながら白水社の辞書の薄いインディアン・ペーパーを次から次へとめくることだった。
 やがてアテネ・フランセの気取った雰囲気にも慣れ、大学のフランス語やフランス文学の授業がいかに退屈きわまりないものかということがわかってくると、ランボオの原書を高田馬場で仕入れ、自称「いちご読書」に遊んだ。「ふーん、これがランボオのフランス語か」という興味津々、まるで少年時代に手に入れたままくしゃくしゃになっていた宝地図を広げてみるように、一語ずつランボオの詩に遊ぶのである。これが「いちご読書」、ハッハハ、つまりは一語読書である。
 このとき片時も手元から離さなかったのが金子光晴のランボオ詩集だった。

 ランボオ。ランボーではなくてランボオ。
 そのようにこの詩人を片仮名で綴ったのは小林秀雄なのか、中原中也なのか、富永太郎なのかは知らないが、ともかくランボオを読むのは20歳までのことだと決めていた。
 そんなことは、ぼくならずとも大半の文学青年がそう思いこんでいただろうことで、これはさしずめ「文芸の麻疹」というものなのだ。その後、ぼくも大学で学生を相手にするようになって、学生にとってランボオやドストエフスキーが麻疹になりえたのは、せいぜい1970年代までだということを思い知らされたけれど、そのころは大学に入って、おまけにフランス文学科などというキザなところに入って、ランボオを読まなかったというわけにはいかなかったのである。
 もっともその後、ぼくはすっかりランボオを読まなくなった。代わりに、シャルル・クロスやジュール・ラフォルグを読む。ランボオがみずから詩を捨てたのに、いつまでもその詩を読んでいることが苦痛になったのだ。そこで『遊』を創刊するときには(1971)、仲間の高橋秀元をそそのかし(高橋君にとってはランボオの鬼才はまだ生きていた)、彼に「呪詩解読」のための斬新なランボオ論を連載してもらったものだった。
 けれどもそれまでは、ランボオはあきらかにぼくを呪縛しつづけていた。あきらかに文芸麻疹ランボオ病の症状である。

 ランボオが「酔いどれ船」や「母音」を書いたのは17歳である。これは原口統三が『二〇歳のエチュード』を遺してさっさと自決していったことより、ずっと厄介なメッセージだった。
 Aは黒、Eは白、Iが赤で、Uが緑の、Oは青? こんな詩を詠まれては、おおかたの17歳がびびってしまったものだ。フランス語の母音に注目する詩人が17歳でいたということがショックだったのである。いまでもそうだが、ぼくは母音や子音に関心を払えない詩人、つまりは母国語の変遷に関心を払っていない詩人など、これっぽっちも信用していない。
 もうひとつ、ヴェルレーヌに誘われてベルギーを旅しながら、二人が妖しいかぎりの同性愛に耽ったことである。しかもランボオがそのヴェルレーヌに拳銃を発射させるほどに嫉妬に狂わせ、絶望させていたことがショックだった。
 いまではそんなことが信じがたいほどなのだが、そのころは同性愛に話が及ぶこと自体がちょっとしたタブーのままになっていて、フランス文学史の講義でヴェルレーヌやプルーストやコクトーの男色にふれる教授など、一人もいなかった。だからぼくがヴェルレーヌとランボオのあいだの男色を知ったのも、早稲田大学新聞会の門倉弘という4回生から「バーカ、おめえはランボオの男色も知らねえのかよ」と言われてからのことだった。彼は加えて、「ランボオなんてつまんねえよ、早く卒業してジャン・ジュネあたりを読めよ」とも言っていた。
 ジュネはとっくに読んでいたが、まだぼくにはランボオ・ショックが抜けてはいない。つまりはパリ・コミューンとともに魂が言語の先へ飛んでいたランボオのことを知ってはいなかった。ようするに「明治のランボオ」の意味がわかってはいなかったのだ。
 だから、ヴェルレーヌがランボオの態度に狂乱していたのにくらべ、ランボオのほうはヴェルレーヌなどではちっとも絶望していないこと、のみならずランボオは18歳のときに書いた『地獄の季節』にさえ愛想をつかし、その一部分を暖炉にパッと投げこんでいっさいの詩作を終えたことなどに、やたらに感服して、うっかり小林秀雄に会いに行って、「先生、あなたのランボオ論はおかしい」と談判したい衝動にさえ駆られていた。

 小林秀雄が綴らなかったランボオがいたのである。それは、詩を捨てたあとのランボオである。
ランボオの37年間の生涯は詩作者ではなく、紛れもない「世界大歩行者」だったということだ。
 しかもこの男は「一個の芭蕉」とはならなかった。ランボオは英語を習得するためにロンドンに滞在したのち、ジャワやバタヴィアにわたって2年を過ごし、いったん戻っては、今度はアレキサンドリアに赴いて、さらにアラビア半島南端の古都アデンに入ると、そこで某商会の店員などになっている。しかもそれからはエチオピアとの本格交易を企てて、しばしば隊商を引き連れてアフリカ奥地にさえ行っている。
 こういうランボオを当時の学生は知らなかった。芭蕉との比較はおろか、資本主義に立ち向かったランボオも知らなかったし、ヨーロッパがパリ・コミューンにこそすべての世界があると思いこんでいたとき、はやくも「世界」はそれ以外にもゴマンとありうるのだと喝破していたランボオのことも知らないでいた。学生だけではなくフランス文学者も知識人も、そういうランボオを知ってはいなかった。
 ようするに、ランボオは福沢諭吉とはまったく逆の、どちらかといえば宮崎滔天に似て、「脱欧入亜」を企てたパリの明治青年だったのである。イリュミナシオンとは、その「入亜」に瞬くイルミネーションのことである。

 ところで、これはランボオの問題でも日本の知識人の問題でもなく、ぼく自身の「20歳の問題」になるのだけれど、1964年の日本青年であったぼくにとっては、ランボオを使ってでも見通しをつけなければならないことが、少なくともひとつはあったのである。
 それは、社会がこれみよがしに表明していることのすべてが欺瞞だと見破る決断に、自分をどれほど長期間おいておけるかということで、それには社会を変革するためのエネルギーの大半が嘘っぱちであることを実感することと、それにもかかわらずその変革のエネルギーを何かに転化しないではいられないことを、どうしたら形にできるのかということだった。
 だからこそ、パリ・コミューンの無益を体験したランボオが、詩を捨てて世界交易に立ち向かっていたことをどう解釈するかは、とんでもなくクリティカルな問題になりつつあったのだった。
 しかし、こういうランボオ解釈も、結局はむなしいものだった。それは、ぼくが日韓闘争を進める学生運動の小さなリーダー(第一文学部議長)の一人であった当時の、何をやっても目の前の社会など変わりはしないのだと日々実感していたことに似て、ある「行為の思想」に思い至らないかぎりは、けっして解決つかない問題だったのである。
 その「行為の思想」とは、いまならそれが何であるかということをはっきり指摘できるものである。それは「越境」ということだった

 あまり、こういうことをちゃんと説明したことがないから書いておくが、ぼくにとっての「越境」は国境を越えることではない。自身の存在の領域から発して、つねに“近く”に向かって越えようとしていること、それがぼくにおける越境である。
 したがって、このような「近さに向かっての越境」は、それを心掛ければ心掛けるほど、ぼくの思想の内側に無数の外部性や異質性が芽生えうる隙間をつくっていく。ぼくは、ここにいるよ。けれども、ほら、ぼくのここにはどんなものも入れるよ。そういう場所を存在がつくりつづけること、それが越境なのだ。
 これは明治のランボオが点火しようとしたイリュミナシオンとはまったく逆の方法である。そして、このことに気がついたことが、ぼくをしてランボオから離れさせることにもなったのだった。金子光晴ならわかってくれることだろう。

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