井原西鶴
好色一代男
岩波文庫 他 1955
ISBN:4003020413

 阿蘭陀流。
 西鶴の俳諧はオランダ流と噂されていた。
 最初は貞門風で、しばらくしてその煩瑣で平板な古風に飽いて、西山宗因の談林風に走った。さっそく寛文13年6月には生玉南坊で百人をこえる俳人を集めて萬句俳諧を興行した。その自序に、西鶴らの新風が巷間、阿蘭陀流とよばれていたとある。さしずめ「あっちからやってきた」風というものである。
 この阿蘭陀流の評判に味をしめたのか、その先を見せるつもりなのか、延宝5年になると、西鶴は生玉本覚寺で一日一夜、1600句の速吟を見せている。いわゆる矢数俳諧。
 指合見と執筆(しゅうひつ)を前に、1分間に1句を作りつづけたことになる。

 3年後、それでも満足がいかなかったらしい西鶴は、またまた生玉南坊において多数の宗匠を招じ、かつ役人だけでも55人を依嘱して一日一夜、今度は4000句を独吟してみせた。
 計算してみると、1分間に2~3句を連発したことになる。信じがたい高速連射砲。ぼくも速吟を仲間遊びで試みたことはあるのだが、いかにわざわざ駄作を連打しようとしても、1分間に1句ずつを休まず100句、200句と続けることすら尋常ではなく、どうしても途切れてしまう。腕立て伏せやスクワットを1回やるたびに1句ずつ俳句を詠むようなもの、それを300回、1000句、2000回、4000句に平然とむかって次々に発するというのは、まったくもって狂気の沙汰なのだ。いまの吉本芸人には5人、10人が束でかかっても無理なことである。
 のちの43歳ころのことになるが、貞享元年にはなんと25000句を一晩で溢れさせた。超人的というのか、ばかばかしいというのか、異常を極めるというのか、ともかく西鶴はそういう方法で何かの秘密を体で掴んでしまったのである。
 矢数俳諧をざっと読んでみると、人間の生活や行為にふれた句が多く、日常さまざまな浅ましさが繰り返し詠嘆されているのだが、むしろ驚くべき連続的連想力が鍛えられていたということに感嘆させられる。

 その西鶴が突如として「仮名草子」の述作に着手した。
 思いつきや慰みに書いたのではない。そこには数々の挑戦的な意味がある。それがますます空恐ろしい。西鶴編集工学の極め付けのスタートなのだ。
 西鶴は俳諧では省略してしまった「あいだ」や「余計」を文章にしようとしたのである。物語にしてしまおうと思ったのだ。西鶴が2000句、4000句の矢数俳諧を詠んだあげくに、こうした小説様式を選んだということは、まさに俳諧と俳諧の僅かな間隙をすら埋めたくなったというわけで、これこそが恐ろしい。
 その第1作が『好色一代男』なのである。
 処女作である。
 しかし、それは世間が知っている仮名草子ではなかった。それまでの仮名草子とは全くちがったスタイルとモダリティとセンス(趣向)をもっていた。俳諧文脈があって、そこに和歌文脈が交じり、さらに漢詩・謡曲のフレーズや「かかり」が組み込んである。それだけなら雅俗の「雅」だけであるが、そこへもってきてニュース記事風、書簡っぽさ、談話ふう、インタビュー収録調などの「俗」がたっぷり入っている。
 この文体感覚の発明が抜群だった。加えて見立てを駆使した物語のおもしろさ。これこそが、やがて「浮世草子」と呼ばれることになったニューウェイブ・ノベルの第1弾だったのだ。もはや阿蘭陀流ですらなかった。
 西鶴自身あるいは友人の西吟は、『好色一代男』を「転合書」と呼んでいた。転合とは「ふざける」「おかしい」「変な」「ざれごと」といった意味であるが、文字通り「転じて合わせる」ということでもあって、西鶴はこの世之介の物語を一大長編に仕上げる構想のもと、源氏五四帖に見立てて、世之介の生涯の記述を7歳から60歳までの五四年の年立てにしてみせたのだ。

 そもそも表題そのものが、実は挑戦的なのである。まず「好色」だが、この言葉は西鶴が広めるまでは一般的ではなかった。
 「色好み」という言葉は誰もが知っていたが、好色は鈴木春信がいくらか画題にもってきたくらいで、だからきわめて斬新だった。「いろこのみ」ではなく「コーショク」。この漢語的な語感をもって王朝文化ゆかりのイメージを呼び捨てたところが、西鶴が矢数俳諧のエディトリアル・エクササイズで秘密を掴んだとっておきの編集術なのである。「シャ乱Q」なのだ
 その好色な男が「一代」限り。
 子供を生む気もなく、家を継がせる気もない。これは幕府が根っから禁じていたことで、儒教にも背いていたし、徳川イデオロギーによる江戸社会の本質にも逆らっていた。しかし西鶴はまさにそういうことがしたかった。
 『好色一代男』を読みはじめると、まだ10歳になったばかりの世之介が念者を口説く場面が出てくる。念者というのは衆道の兄貴分のこと、つまりホモセクシャルな相手のことである。この衆道がまた幕府が徹底して取り締まりたかった風俗だった。それを西鶴は最初からぬけぬけと公認させる。

 世之介は両刀づかいなのである。だから、たしかに男女の別なく挑んでいく。口説きもし、口説かれもし、捨てもし、捨てられもする。技を磨くが、性根も磨く。
 しかし西鶴は単に当時の性風俗をあからさまに描いたというのではなかった。そんなつまらない作品ではない。いったいいつ、どこで、誰を、どのように相手にしたり、懸想したのかということの、その順番、その認知の仕方、その人情、その技法、その興奮、その失望、それらのいちいちの組み立てのつど、それを描写するための言葉を作ったのだ。その組み立て自体が「性」がもたらす西鶴の反社会構想だったのである。これは「性」の奥にひそむ「縁」の発見だったとさえいえる。
 どうも女性の読者からは敬遠されがちな本書を広めるためにも、 ごくごく簡単な粗筋を書いておく。ちょっと浮世草子めいて。

 夏の夜の寝覚め。世之介は「けしたところが恋はじめ」の7歳のとき、手水の濡縁で腰元に戯れかかって柔らかさをおぼえ、身近な者にはつねに思いをかけるようになる。
 10歳、「袖の時雨はかかるがさいわい」か、さきほども書いたように美男に惹かれ、11歳では「たずねて聞きたい」伏見撞木町の遊女を身請けする。ここで軟禁でもするのなら婦女子誘拐のただの「ひきこもり」だが、世之介はこれをもって畿内彷徨を決意、兵庫風呂屋やら八坂茶屋やら京川原町から奈良木辻町あたりを懸想を求めて歩きまわり、18歳では完全な放蕩者となっていた。19歳、「茜さす日のうつり」を見ているうちに、これはもう出家をするしかないと覚悟する。
 けれどもこんな覚悟が続くわけもなく、最上の山伏に先達されれば「あはれとおもへ山桜」、やがてむくむく山伏にも出合女にも身を染めたい。結局、吉野大嶺に詣でたあとは「恋のすてがね」、大坂で“謡いうたい”となって京都に入り、瀬戸内を下って九州中津にまで旅をする。そこで若い女方(おやま)に「浮世小路はすは女」、ついつい追われてまた大坂へ。乳母の妹の出合宿に寄るうちに、大原の「一夜の枕ものぐるひ」、またまた旅逸がおとずれて、佐渡から酒田へ、酒田から鹿島。ここでよせばよいのに「口舌の事ふれ」、27歳にして神職になってしまっていた。

 神職だからとって神子に女がいないはずはなく、水戸へ出て「末の松山、身は沖の石」、ああ向かうは陸奥一人旅、仙台へおもむくかたわら、塩釜の舞姫にぞっこんで手籠にしようとおもうも、ここでは旦那に片小鬢を剃られてベッカム・ヘア。
 たまらず「形見の水ぐし」、信州追分に入ったものの盗賊と怪しまれて入牢となる。けれども牢払いののちは抜け目なく牢中で思いを交わした女と駆け落ちが「夢の太刀風」、けれども女は捕まり殺される。そこで最上のほとりに昔の念者を尋ね、「替ったものは男傾城」、江戸に入っては町奴の唐犬権兵衛に身を寄せた。たちまち富豪の夢山なる者に気にいられ、京へ誘われ島原に初めて遊んだのが32歳。ところが、あてがわれた太鼓女郎にさえ振られ、これはなんとしてでも太夫遊びを成就するぞと、ついに藤山寛美を志したのである。
 しばらくは熊野の高徳を慕ったり、紀州加陀で漁師の女房を船に乗せ沖に出て難破をしたり、仕方なく泉州堺の知るべに転がりこんだりの日々ではあったが、そこへ父の死が告げられ34歳にして遺産2万5000貫が転がりこんで、「金銀ちりばめ、自由を仕掛け」の一夜の大大大尽とて、出来坊(できのぼう)となる。

 これで話は後半、世之介はあらんかぎりの「遊女尽し」に挑んでいく。吉野太夫を筆頭の、それはそれはあたかも三都くまなき名技列伝なのだ。
 禿の伊勢参り、末社の厄神参り、堺は袋町、筑前は柳町、安芸は宮島など、地方地域の遊女がことごとく登場し、最後の最後で長崎は丸山に遊んで、ここで打ち止め、遺産7000両を東山に埋めたかとおもったら、仲間7人と船を仕立て、ついには女護が島に出掛け、その島の女にまるごと溺れようという最期の魂胆なのである。
 この女護が島へ渡る船の名が「よしいろ丸」、つまり「好色丸」。強精品、バイアグラ、木形子、ナマコや錫や水牛の張形、キョーレオピン、源氏に伊勢に枕絵200枚。そのほか責め道具一式を積んでの法外きわまりない出港だったが、西鶴はちゃんと王朝「いろこのみ」→漢風「コーショク」→俳諧「よしいろ」とまとめてみせた。これなら世之介とて、「されば浮世の遊君、白拍子、戯女、見のこせし事もなし」。
 こうして「日和見すまし天和二年、神無月の末」、伊豆の国より船出をすることになった。けれども世之介、そのまま「行方しれずに成にけり」。
 この最期の女護が島の船出については、松田修さんがはやくから「補陀落渡海」の見立てであることを喝破した。

 だいたいこんな粗筋だが、この物語の傑作が源氏を仕立て直したわりには、長編小説としての体裁が不備であるという、まことにくだらない批評がまかり通ってきた。
 ぼくもあれこれ読んだうえのことではないので憚るが、どうやら西鶴を現代人が読まないような風潮をつくってしまったのは、国文学者や文学者たちなのである。かつて淡島寒月が露伴や紅葉や一葉子規に西鶴を勧めたときのあの真骨頂が、あまりに継承されていないのだ。
 西鶴は、この一作において何をしてみせたのか。国文学が今日に伝えるべきは、西鶴にして初めて編成できた日本語の情報編集術であり、情報編集構造なのである。新たな文体の誕生であり、メディアとしての文学の創成についてのことなのだ。『好色一代男』以前には、浮世草子は誰もが思い付けなかったという、そのことなのである。つまらない文学論を読む前に、中嶋隆の『西鶴と元禄メディア』(NHKブックス)などを覗いてみることを薦めたい。

 ところで、『好色一代男』は西鶴自身が挿絵を描いた。岩波文庫の本書にもそのいくつもが挿入されている。西鶴はまさにマルチメディアを先取りした世之介でもあったのである。
 もう一丁、ところで、西鶴はタオイストではなかったかという説が、最近になって福永光司さんから提出されている。「好色」「一代」ともに道教に縁深いというところから、若いときの筆名の「松寿軒鶴水」や墓に刻まれた「仙皓西鶴」の考証まで、なかなかおもしろい。しかも福永さんは極め付けの決定打も放っていた。
 そもそも「浮世」という言葉にして、荘子や阮籍の発想にあるもので、実は元禄の大阪はタオイズムで覆われていたのではなかったか、そういう仮説であった。
 たしかに西鶴の言語編集術、なかなか接して漏らさない-。

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