清水眞澄
読経の世界
吉川弘文館 2001
ISBN:4642055215

 日本の歴史には「能読」とよばれた人物が何人もいた。能読とは読経がうまい僧のことである。
 たとえば後鳥羽院の御読経衆の慶忠は「持経者」として名高く、『孔雀経』を読ませるとその妙音はなんとも「優美」であったと記録にのこる。エキゾチックな密教呪文の多い『孔雀経』にはキリキリキリ(吉利)が十回くりかえされる有名な陀羅尼が入っていて、それが神楽歌にも採り入れられている。きっとそういう陀羅尼のところの唱え声で人を酔わせたのであったろう。
 能読とはべつに「能声」という言葉もあった。これは念仏名人のことである。迦陵頻伽(がりょうびんが)のような声のことだというのだが、さて迦陵頻伽がどんな声で唏きながら天空を駆けていたのかはわからない。また、「能説」という評価もあった。主として説経師に与えられた褒め言葉のようである。
 これらは虎関師錬の『元亨釈書』ではまとめて「音芸」とよばれていた。
 本書は、この能読・能声・能説を採り上げ、その「音芸」にひそむ仏教世界と人々とのかかわりを綴って、出色格好の一書となっている。こういう本があったらいいのにと思っていたら、こういう本が出た。著者は日本文学と日本語史の研究者のようだが、よくぞここまで踏みこんで、読経という世界を浮上させた。いささか網羅的で、脈絡が整っていないきらいはあるものの、その領域の設定に感心した。

 日本文化の解読にはボーカリゼーションの変遷が欠かせない。日本文化にはつねに「声」が響いていたことを忘れてはいけない。
 日本の歴史的なボーカリゼーションには、基本的に二つの「声」がある。ひとつは倭人がつかっていた言葉の音である。よく大和言葉といわれる。いまでも祝詞などにそのイントネーションやリズムが残響する。
 もうひとつは中国の漢字をどう読むかということがあった。正式文書も経典も漢字だらけであったからである。この漢字の発音に漢音(北方中国語音)と呉音(南方中国語音)、および唐音(新たに流行しつつあった発音)のちがいがあったため、読誦のボーカリゼーションを「漢音で読むか、呉音で読むか、それとも流行中のモードで読むか」の選択をしょっちゅう迫られた。聖武期から桓武期にわたる130年間はもっぱら漢音が奨励されている。
 なぜこんなことが重要になったかというと、中国では帝王は正字正音を継承するもので、その中国の正音を日本もちゃんと模倣すべきだと考えられたからである。とくに桓武天皇はこの正音継承に熱心だった。
 こうして平安時代、大学寮の明経道(儒学)と紀伝道(史学)をまなぶ学生には漢音の誦習が義務づけられ、天台・華厳・三論・法相などの宗派が僧侶試験をするときは、経典読誦には一句半偈のボーカリゼーションを音博士がチェックをするという厳しさが要求された。また、藤原氏の私学校にあたる勧学院でも試験がされるようになると、そこでは引音(ひきごえ)で読むというような指導も始まった。引音は試験官の笏にあわせて伸ばしたり縮めたりして読む工夫である。

 このような日本のボーカリゼーションを強く牽引したのは、実は密教、とくに真言密教である。第544夜の『五十音図の話』にも書いたことだ。
 密教の言語音韻をめぐる研究の歴史こそが、日本のボーカリゼーションのエンジン部分を設計し、和漢にまたがる「読み」のインターフェースを開発してきた“Xプロジェクト”だった。
 それゆえ真言密教にはいろいろ凝った読経が生まれた。ぼくの体験でいうと、高野山で最初に『理趣経』を読んでいるのを聞いたとき、この音楽性はなんと豊饒なんだろうと驚いたことがある。のちに広沢僧正寛朝が「中曲理趣経」という曲をつくっていて、それが近世になってかなり採りこまれていったことを知った。つまりそのころは密教社会には“経典作曲家”がたくさんいたということなの
だ。
 もっとも、そのような作曲がいまも続いているかというと、まったくおこなわれてはいない。ひたすら伝統の分岐を継承しているだけである。

 ともかくも、こうしてあれこれの苦労と工夫をへて確立してきた読経世界は、だいたい次のような仕組に収まった。
 まずおおざっぱにいうと、読経には経典を見ながら読む「読」、これを暗誦してしまう「誦」がある。ついで、読経を行法としてマスターするには、経典を最初から最後まで文字に即して読んでいく「真読」、次々に大部の経典を読みこなしていく「転読」、仏の諸相を観相しながら読む「心読」、さらにはそれらの経典の教えを実行する「身読」などを通過することが要求される。
 この読経のレベルにそれぞれ読み方が対応する。律動や抑揚が加わっていく。たとえば「直読」は単調だが力強い。その直読にも二つの読みがあって、しばしば「雨滴(あまだれ)曲」といわれるようにほぼ同じリズムで読経する場合と、なんらかの節をつけていく場合がある。これはよく「曲節」(くせぶし)とよばれてきた。天台の「眠り節」、三井寺の「怒り節」などが有名だ。
 初心者の読経は「いろは読み」、修験にはよくあるのだが、経典の最初と中央と最後を七行・五行・三行で略読するのは「七五三読み」などともいった。羽黒修験では「逆さ経」といって、般若心経をさかさまに読む。
 ようするに読経にも真行草があったのである。実際にも真読・行読・草読という言い方をしている宗派もあるし、かつての時宗のように「念声一体」といって、どう読もうともともかく思念と名号が一緒になるように読めばいいとするところもあった。むろん宗派によるちがいも多く、天台では行法を5段階に分け、その第二に「読誦品」をおき、浄土宗では浄土三部経を読むことそのものを「読誦正行」、そのほかを「雑行」と分けている。

 中世社会、各寺院のそこかしこはボーカル・ミュージカルの会場だったのである。アカペラとはかぎらない。さまざまな楽器や音具もとりこまれ、多くのばあいはパフォーマンスも伴った。
 しかし、この時代は僧侶だけがボーカリゼーションを独占したのではなかった。貴族・庶民・職人・遊女たちも読経をたのしんだ。一条天皇の時代では、解斎の場でも管弦を用い、催馬楽・今様・朗詠をたのしんだだけでなく、「読経争い」「読経比べ」として経典読誦を遊びのように興じた。
 こうして藤原公任のような朗詠名人・読経達人が公達のほうからも続々と輩出してきたのである。公任と藤原行成と源為憲の三人が法華経を題材に詠みあい、漢詩を作りあい、書を交わしあったイベントなど、きっと絶妙のものだったとおもわれる。
 こうしたイベントは、そのうちしだいに「型」をつくっていたようだ。『元亨釈書』ではそのような音芸イベントが、「経師」による読経、「梵唄」による声明、「唱導」による説経、そして最後は「念仏」で締めくくられていたと報告している。ここでは「行」と「伎」はひとつだったのである。
 本書はこの「経師」の名人系譜を何人にもわたって紹介して、ぼくに、かれらの声がさぞや中世音楽会のパバロッティであり、ドミンゴであったかと想わせたのだった。

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