ロバート・グレイヴズ
暗黒の女神
興文社 1968
Robert Graves
Mammon and the Black Goddes 1965
[訳]味岡宇吉

 こういう雑談を書ける詩人がいなくなってきた。だいたい本書の標題からその内容を推量できる者は、ほとんどいないのではないかとおもわれる。
 こういう雑談というのは、知を遊ぶにあたって該博な知識を自由に動かすのは当然なのだが、それを誰もが辿ったことのない脈絡に仕立てつつ、そこに想像力の翼を勝手に広げたり、気にいらない知には閉じたりしてみせるような、そういう詩人の語り部としての味のことをいう。
 真の雑談というべきかもしれない。
 だから、こういう本を読んでいるときの、なんともいえない逍遥感覚と放たれた鷹が見せる旋舞感覚のようなものは、私のような勝手で不埒で、なんといっても「他」と「別」ばかりが好きな読者にとっては、まことに譬えようのない充実なのである。

 ロバート・グレイヴズは1926年にオックスフォード大学を出て、しばらくカイロ大学で英文学を講じていた。そのころに地中海や小アジアやアフリカに魅せられ、その後はずっとマジョルカ島に住んでいた。
 途中、第一次世界大戦に従軍し、それからはずっと「死」に裏打ちされた「愛」を詩に書き綴っていた。その一方で、大学の講義を通して遊んだ古典世界を縦横無尽の脈絡に仕立てなおす雑談をしはじめた。とくにギリシア神話の読解は図抜けていて、これは名著の評判が高い『ギリシア神話』になっている。しかし、さらにわれわれを陶酔させたのは『白い女神』の雑談であって、ぼくはイギリス人にならないとこういうものは書けないとさえ思ったほどに羨ましい逍遥と旋舞であった。
 しかし、その『白い女神』の明るさよりも、この『暗黒の女神』の低徊趣味は、もっとグレイヴズの高踏芸当なのである。さあ、どういう高踏芸当だと言われても、もったいなくて、案内してあげる気がしなくなるのが困ったことである。

 本書は講演や随筆の集成で、肩の凝るようなところはまったくないけれど、ちょっと足を止めてその言葉や言い回しや示唆を注意深く読もうとすると、たちまちその奥に古代の知恵や鋭い現代文明批判が控えているといったふうで、ようするにグレイヴズの座敷の四方の襖を開けて読むか、閉めたまま読むかで、なんとでも読み方は変わってくるものになっている。
 たとえば、冒頭、マモンの話が出てくる。マモンは富の神のことである。
 この話をするにあたって、グレイヴズはまず「マネー」という英語の語源を遊んでいる。古代ローマの貨幣鋳造所に女神ユーノーが神殿とともに鎮座していて、この女神の異名モネータからマネーという言葉が派生したのだが、実はそのモネータは古代ギリシアのムネモシュネのローマ語翻訳であった。そうだとすると、ムネモシュネは「精神の集中」や「記憶の作用」を司る神だから、そもそもの古典世界における「お金」(マネー)とは、何かの集約をあらわすための言葉であって、しかもその奥にひそむ記憶のようなものを引き出すための媒体として考えられていたのではなかったか。まあ、こんなふうに、話を進めるのである。

 これでギョッとしてもいいのだが、こんな程度ではまだ遊び足りない。グレイヴズとはそういうひとなのだ。
 そこで、「公認された貨幣」という意味をもつようになったモネータが、そのうちにペクニアという言葉で代用されるようになった古代ローマ帝国の事情をちょっとだけ覗く。そして、ペクニアがもともとは「家畜」を意味する言葉であったにもかかわらず、それがなぜ「お金」や「貨幣」の力を代理する言葉になったかということをめぐる推理を、まるでついでに隣の箱をちょっとだけあけるように披露する。
 ところが、その、ちょっとした推理がただならない。「お金」がなぜ交換原理を担ったかという秘密を、家畜だってかつては交換原理を担う“生きた通貨”だったこと、「愛」だって相互依存の関係を支えるための“通貨”めいていたこと、叔父さんという言葉には父方の叔父と母方の叔父では何がちがうかといえば、その代替交換性にこそ違いがあったことなどなど、社会人類学者が聞いたらそれをこそ研究するのがわれわれの役目なんだと言いそうなことを、次々にキャンディをつまむように並べて語りかけるのだ。

 こういう話が続くのだが、実はこの程度ではない。ものすごく深いところのセンサーばかりが動いて、さらにさらにとんでもない歴史の秘密が紹介されると思ってもらったほうがいい。
 が、それを説明するとグレイヴズではなくなっていく。この人はそもそもが「愛の詩人」や「戦争詩人」で知られた人なので、雑談で語りかける内容は、いつもは詩魂の内側に昇華されていて、めったに本書に語られているような言葉は出てこない。
 それが、時と所のぐあいがいいと、やおら豊饒な語り口になる。われわれとしては、ついついグレイヴズが気を許して詩人が封印してきたことを漏らしはじめたころ、そこを読むのが極上のたのしみになるわけだった。
 マモンの話も、あのあと次から次へと話は飛び火して、ユダヤ・キリスト教におけるパリサイ人の語られ方にひそむ交換の意味、ヘルメス主義が実は盗賊と外交をごっちゃにして「知」の装いのふりをしているにすぎなかったこと、だいたい古代人は死を前にして何をもって誰と交換したがったのかということ、はては近代に誕生した銀行という制度がこれらのマモンの怪しげな交換神話の上に成り立ったものであったことなど、まるで人類の社会制度の本質をことごとく瓦解させるような、それでいてちっとも過激な言葉をつかわないで、それらの“告訴”を淡々たる語り口の端々にのせただけであるような、そんな自由自在のマモンの歴史をめぐる雑談だったのである。

 グレイヴズの詩と雑談には、どうやら根源的なフェミニズムと近代合理主義への痛切な倦怠がある。
 詩においても雑談においても、扱う主題に女神が多いのも、古代の女神たちが変容させられていった宿命の意味を伝えたかったからで、単に女神を礼讚したいわけではないらしい。バッハオーフェンさながらに、母系的なる「知」というものがことごとく父系的なるものに取って替えられていった不埒な経緯に訂正を求めたいからであるようなのだ。
 本書のなかにもときどきふれられているのだが、グレイヴズにはそもそも一貫した詩人像がある。それは、詩人の役割というものは芸術家としての根性やクリエイターとしての能力を示すことなどではなくて、歴史が改竄しつづけてきた内容をたちまち白日のもとに晒してしまう「方法」を編み出すこと、ただそれだけなのだという確信である。
 そういうと、グレイヴズがいかにも先鋭的な文明批評家に見えてしまうかもしれないが、読めばわかるように印象はまったく逆のものである。つねに優美、たえず流暢、いつも謙遜に満ちている。しかも、どんな話も必ず連鎖的なのである。

 ただ、ひとつ心配がある。おそらく若い世代にはロバート・グレイヴズをたのしむ方途が見当たらなくなっているのではないかということだ。
 残念なことに、本書もとっくに絶版になっている。われわれはこうして、真の雑談を継承する伝(つて)をしだいに失っていく宿命にあるのであろう。

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