塩倉裕
引きこもり
ビレッジセンター出版局 2000
ISBN:4894361396

 一説には、引きこもりの青年青女は100万人をこえているといわれる。成人の引きこもりが1万人をこえたと報道されたのは1994年のこと、もう6年前のことだった。
 どうやって調査したのかは知らないが、そんな数字もありうるかなとおもわせるほど、引きこもりは特段の現象ではなくなっているらしい。1999年の不登校の生徒の数が13万人というから、程度の差はあるのだろうが、いずれにしても引きこもりの数が拡大していることが予想される。
 この引きこもり現象に対して、“正常な社会”の側の反応は異常なほどに過敏である。引きこもりの青年による犯罪が大きく報道されたこともある。
 1999年暮に京都伏見の小学校校庭で2年生が刃物で切りつけられて死に、あけて翌年1月は新潟三条で9年にわたって軟禁されていた女性が保護されるという事件がおこった。犯罪に及んだのは引きこもり型の青年だったとテレビは繰り返し“解説”した。
 引きこもりは“社会悪”かのように映っているのである。なぜこんなふうになったのか。著者は引きこもりが一般人の不安を刺激しているからではないかと推理する。その不安は5つある。

1)犯罪を恐れる警察的・治安的な発想からの不安
2)禁欲的勤勉をよしとする労働倫理が崩れることへの不安
3)超高齢化社会を目前にした社会保障面の不安
4)コミュニケーションにかかわる漠然とした不安
5)世代交替が機能不全に陥るのではないかという不安

 朝日新聞の学芸部記者である著者は、新聞連載のインタビューをまとめた前著の『引きこもる若者たち』で、「コミュニケーションが“空気のように当たり前に存在した時代”は終わったのかもしれない。いま私の中にあるのは、コミュニケーションが“課題”として人々の前に姿を現し始めた、そんな時代への予感である」と書いた。たしかにそんなふうになってきた。もはやコミュニケーションは“創造”したり“創発”するものになりつつある。

 引きこもりの定義は難しい。ただ家にいるというだけで引きこもりとは判定できない。家にいたって豊かな精神生活を送っている人はいくらでもいる。
 いま「引きこもり」といわれるのは、その状態に多少の苦痛を感じていながら、それでいてその状態から抜け出せないでいる現象をいう。どこからが引きこもりかの線引きなどはないが、だいたい一年以上自宅や自室に引きこもっていて、必要最小限の外出しかしない場合をさしている。とくに子供や若者に多い。自分には社会に対応する能力が欠けているとか、生きている価値もないんだとおもう若者の数も少なくない。最近は30代にもふえている。
 ただしこれを精神医学の面から見ると、分裂症型の引きこもりと非分裂症型の引きこもりがあるようで、精神障害であるとみなすわけにはいかないことが多い。
 では、どうして引きこもりはふえるのか。

 著者はそこに特有の悪循環があるのではないかと指摘する。引きこもりから抜け出しにくくさせている構造があるというのだ。
 短期の引きこもりの感情は多くの者にある。学校や会社に行きたくないとおもう気持ちや、会合やパーティや冠婚葬祭に顔を出したくないこともしばしばある。本書には「ぬくもり」ほしさから引きこもりが始まった男性の例も紹介されている。しかし、それがしだいに長期化してしまうのは、引きこもりからうまく抜け出す機会がなくなっていく事情が社会にも醸成されているからである。
 たとえば「学校を休んだ以上、表にいたのではまずい」「いい大人が昼間にぶらぶらしているのは近所に変におもわれる」といった気持ちが引きこもりを長引かせた例が少なくない。ちょっと引きこもってしまったが、なんとか再び社会に復帰しようとおもうのにもかかわらず、履歴書に空欄ができるため、それを先方に問われるのが気まずくて引きこもりが続いた例もかなりある。
 家族が「そんなことで生きていけると思っているのか」といったことを言い過ぎて逆効果を生んだり、その反対に、家族が不安をもちすぎて“外出刺激”を与えようとして、車の免許をとったらどうかとか、アルバイトならできるのではないかと言うあまり、かえって本人の自信を喪失させ、それがまた家族の焦りを強化し、それが本人にまた投影されるという悪循環もあるようだ。

 学級崩壊が問題になったとき、多くの識者やメディアは「なぜ今の子供たちは静かに授業を聞けないのだろうか」ということを問うた。しかし、その逆に「なぜ今まで子供たちはわからない授業でも静かに座りつづけたのだろうか」という疑問をもってもよかったのである。
 著者はそのことに注目し、「明治の近代化以降、基本的にみんな学校というものに満足していたからなのではないか」という教育学者の見方を紹介している。そこには「親より上に行ける」とか「社会での適用力が高まる」という幻想が律していた。
 しかし1970年代になって、高校進学率は90パーセントをこえ、大学進学率が頭打ちになる。学校に行くことはまったくフラットな現象になったのである。そこへもってきて少子化と高齢化が一緒に進み、企業社会に不景気がおとずれると、学校を出たからといって何かが約束されるということがなくなってきた。
 こうして登校拒否がふえ、学級崩壊がおこり、そのような学校時代をおくった青年が長じて引きこもりを続けるようになった。
 このような社会状況の劇的な変化や価値観の実質的な変質を考えに入れてみると、どうも引きこもりが個人の意志薄弱だけにもとづいているとはいえなくなってくる。登校拒否が問題になったとき、不登校児童の相談を受け付ける東京シューレを設立した奥地圭子さんの『登校拒否は病気じゃない』(教育史料出版会)が出たとき、ぼくもなんとなくそういう予想をもった。

 著者が『引きこもる若者たち』(ビレッジセンター出版局)を世に問うたのはそういうときだった。1995年である。
それから5年、本書はその後の引きこもり現象の背後に蟠る問題を摘出する作業にとりくんだ。引きこもりの原因とともに援助の方法はどのようなものであるべきかという問題である。
 本書は2部構成で、前半は男女5人の引きこもり体験者のインタビューがたっぷり紹介されている。ある意味ではたいへん重い内容だし、ある意味ではぼくが想定した引きこもりの“定式”をことごとく覆す衝撃に富んでいた。
 後半は著者の引きこもりに対する考え方、とくに引きこもりをつくる社会の構造や事情を抉っている。そして「引きこもりを援助する」とはどういうことかを、ジャーナリストらしいアンテナで探っている。
 いろいろ考えさせられた。
 他人事ではないということもあった。なぜならぼくのどこかにはあきらかに「引きこもり」の潜在傾向がいくつも認められたからである。そしてぼくが引きこもりをしなかったのは、ぼくの意志の力ではなく、すべてが他者の力のおかげであったからである。

参考¶最近、引きこもりを扱う書籍がふえてきた。田中千穂子『ひきこもり』(サイエンス社)、斎藤環『社会的引きこもり』(PHP新書)、狩野力八郎・近藤直司編『青年のひきこもり』(岩崎学術出版社)、近藤直司ほか『引きこもりの理解と援助』(萌文社)、富田富士也『新・引きこもりからの旅立ち』(ハート出版)など、ずらりと並んでいる。富田氏は民間援助機関フレンドスペースの代表として引きこもりのカウンセリングをしていた人物で、本書にもしばしば登場している。

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