高橋輝次編著
誤植読本
東京書籍 2000
ISBN:4487795257

 中国では「魯魚、焉馬、虚虎の誤り」という。
 魯と魚、焉と馬、虚と虎は書きまちがいやすいということだ。また中国で「善本」といえば、良書のことではなく誤植のないエディション(版)のことをいう。それほど誤植は恐れられてきた。
 たしかに誤植はときに意味や事態を反転させてしまう。近衛文麿が戦時中に内閣改造をしたとき、朝日新聞がとんでもない誤植をしでかした。「新体制は社会主義でゆく」という大見出しをつけたのだが、これが致命的な誤植だった。「社会正義でゆく」が正解だったのだ。兜町が「すわ、日本も革命」かと大慌てした。
 ここまで天下を騒がせる誤植は少ないだろうが、誤植はつねに書物や新聞や雑誌の中に息をひそめて泡立っている。単に誤植があるだけではない。少しずつ意味の意匠を着替えてオツにすましていることもある。「若い夢」が「苦い夢」に、「かぐや姫」が「がくや姫」に、「小使をもらった」が「小便をもらった」に、「手首」のつもりが「生首」に、「学者風情の本懐として」がこっそり「芸者風情の本懐」にというふうに‥。
 これらは漢字をとりちがえてもそれなりに意味が通るだけに、すこぶる厄介なのだ。

 ぼくも編集者のはしくれとして、つねに校正と誤植には悩まされてきた。実は校正はあまり得意ではない。
 かつては手書き原稿が多かったから、それを活版で組んだのち、ナマ原稿と活版ゲラを一字一句見比べて校正をするのだが、どうも似たような漢字の誤差に気がつかない。それこそ虚と虎をまちがえる。これはあきらかに校正力がないためだが、それだけではなく、われわれのアタマにはそのような「誤差をしたがるニューロン」がワルサをしているのではないかというほどに、だいたい誤答率が決まっている。
 その後ワープロやパソコンで文章を打つようになると、今度は自分で最初から打ちまちがえたままになっている。そのプリントアウトした原稿を相手に送ったり、それをフロッピーやネットで相手に送るようになると、向こうが困る。はたして、この文字でいいのかどうか、向こうは二重に訂正を引き受けることになる。申し訳ないことだが、どうも治らない。
 この「千夜千冊」もワープロ打っ放しでスタッフにまわしてしまうときは、つねに3~4字がまちがっている(ところが10字まちがうとか、1字しかまちがわないということは、めったにない)。

 それにしても、誤植の入った自分の文章に出会うと必ずサアーッと冷や汗が出る。これはまことに奇妙な感覚で、なんとも居たたまれない。羞かしいやら、無知を晒しているようやら、もう弁解も手遅れで情けないやら、奇妙な後悔に立たされる。
 本書はそういう証文の出し遅れのような感覚を綴った文章ばかりを集めたもので、尾崎紅葉・森鴎外佐藤春夫・斎藤茂吉から井伏鱒二・山口誓子・澁澤龍彦・森洋子・泉麻人まで、それぞれの時に応じた「恥」と「弁解」を披露している。
 帯には「失敗は成功の墓」(これは「失敗は成功の基」の誤植らしい)とある。
 歴戦の文士たちが誤植に苦い思いをしてきた話をずらりと集め、これをニヤニヤしながら読めるようにしてくれた著者には感謝するばかりだが、それとともに、明日は我が身という思いをどうしても拭いきれなかった。
 だいたいチョシャコー(著者校)というのが難しい。自分で書いた文章がゲラになって出てきて、これを自分で赤を入れるわけなのだが、ついつい自分の文章の手直しに向かってしまい、いちいちの文字を正す(質す)ということができない。自分で書いた文章だから、たとえば「私はレヴィ=ストロースの民旅学の黎明期に疑問をもっている」などという文章の「族」が「旅」になっていることなど、てんから眼の鱗に引っ掛かってこないのだ。

 しかし、あらためて冷静に考えてみると、なぜ誤植が居たたまれない感覚に満ちたものなのか、その理由ははっきりしない。
 むろん歴然たるミスであるのだからどこから咎められても当然ではあるけれど、その責任はいわば著者・編集者・校正者・版元に分散しているのだし、それに固有名詞の誤植や「社会正義」と「社会主義」というほどの誤植はともかくも、「捨てられた」が「捨てらりた」になったり、「切った貼った」が「切った張った」に、「止むに止まれぬ」が「止むに止まれね」となっているくらいでも、この事実に気がついたとたんに“みっともない気分”になるというのは、この犯行感覚にはなかなか見逃せない異常なものがあるということなのである。

 マルセル・デュシャンは「創造的誤植」という言葉をつくったほどだから、誤植なんかを恐れるなという方針である。
 たしかにワープロやパソコンで「あくまでも」と打ったつもりが「悪魔でも」と、「こうして」が「抗して」と、「このくらい」が「この暗い」などと出たりすると、なんだこれもおもしろいじゃないかという気にさせられる。デュシャンの「創造的誤植」とはこういうことである。
 ぼくは基本的にはこのデュシャンの方針を採って、自分の怠慢を翻してきたのだが、さて、そう嘯(うそぶ)いてはみても、どうも事態はすっきりしない。実際に自分の文章のなかの可憐な誤植に気がついたときの、あの消え入りたくなるようなコソコソ感覚は消えることはない。いったい、これは何だろう。
 ミステークというものは、ふつうはその場で流されていく。言葉の言いまちがいも、なるほどみっともないものではあるが、一応はその場だけの「当座の恥」ですむ。誤植はそれが活字や印刷によって定着してしまう。「末世の恥」になる。しかも、たいていは“おもいがけない誤植”として残る。この“おもいがけなさ”がきっと誤植の真骨頂なのである。
 サッカーでいうのならちょっとしたバックパスのボールが相手に取られて、やらずもがなの一点を与えてしまったようなものだ。これは呆然とするというより、たしかに居たたまれない。自分で自分に憮然とするしかない。
  ところで誤植よりもがっかりすることは、新聞の漢字の使い方である。「破綻」を「破たん」、「締結」が「てい結」、「凱旋」が「がい旋」などとあると、何だとおもってしまう。これではかえって意味が消えていく。漢字の熟語というものはたとえ読めなくともなんとなく意味はその字形のゲシュタルトのままに伝わるものなのだ。それを変えてはいけない。
 そして、この字形のゲシュタルトが動くからこそ「破綻」が「破綜」になっていても、ついつい誤植に気がつかないという見過ごしもおこるわけなのである。

参考¶著者の高橋輝次さんは大阪外大の英語科を出たのち創元社の編集者をへてフリーになった人で、すでに『編集の森へ』(北宋社)、『古書と美術の森へ』(新風舎)、『著者と編集者の間』(武蔵野書房)などの著書、『古本屋の自画像』(燃焼社)、『原稿を依頼する人、される人』(燃焼社)などの編著がある。いずれも微妙な編集世界を扱って、たいそう気になるパレードである。

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