城山三郎
もう、きみには頼まない
毎日新聞社 1995 文春文庫 1998
ISBN:4167139235

 ぼくが一番嫌いな言葉は「わかりにくい」という言葉だ。棚上げの言葉にすぎないからだ。
 わかりたいと思っているなら、こんな自己保身的な言葉をつかわないほうがよく、わからないなら変に擦り寄らないほうがいい。わかるは「分かる」。さっさと分けなさい。
 だいたい「わかりにくい」というのは、誰かの言動についてのことが多い。しかし、誰かのことが「わかりにくい」と評されているその人物が、別の評判では大いに人気を博していたり、深い理解に囲まれていることはよくあることである。
 わかりにくさというのはまことに相対的なもので、その相対性の中に分け入ってみる気のない者には、何だってわかりにくいものなのである。仮に本当にわかりにくいとしても、そんな「わかりにくい」という感想をわざわざ他人に言う必要はない。黙ってそこから立ち去るか、あるいは努力して理解をしていればよろしい。
 自分の判断力や行動力を棚上げするために「わかりにくい」というのはやめたほうがいい。

 本書の主人公は石坂泰三である。多くの者たちが「わかりにくい人物」と評した財界人だった。
 その多くの者というのは石坂を囲む企業幹部、官僚、政治家たちであったが、そこには変な共通の特色があった。そのことに惹かれているくせに、自分ができそうもないと思えることを石坂から頼まれたときに、決まって「石坂さんの要求はわかりにくい」で逃げる連中だった。
 石坂泰三はそういうときによく一喝した、「もう、きみには頼まない!」。

 複線人間(あるいは伏線人間)という言葉がある。
 一筋縄では縛れないという意味だが、一中・一高・東大法科・逓信省というエリートコースをへて第一生命に入り、同社の社長を8年つとめたのちに東芝社長をまた8年にわたって仕切り、その後は経団連会長に推されて6期12年を務め終え、まさに代表的なトップ街道を走って順風満帆のように見える石坂泰三も、「まるで飛行機に乗るたびにハイジャックに遭った乗客のようなものだった」と本人が言っているように、つねに路線を変更させられた宿命を生き抜いた。
 ふつうは、不満たらたらか、泳ぎまくるか(この二つは裏腹の関係にあるが)、ワンマンになるか。そうなりかねない。そうでなくとも気持ちの紆余曲折がいろいろオモテの言動に出てしまう。隠せない。そこを断然に悠々と乗り切れたように見えるのは石坂が複線人間だったからである。
 こういう人間を描くのは、城山三郎が一番うまい。その城山も最初は石坂を描く気はなかったらしい。みんなが「わかりにくい」と言っていたからだ。ところが石田禮助を描いた『粗にして野だが卑ではない』を城山が書いたとき、石田を調べていて石坂泰三の予想していなかった横顔に何度となくふれた。「なんだ、わかりにくいんじゃなくて、まわりの連中がわかりにくくなるほどダントツなのだ」ということがわかった。

 石坂泰三については、武石和風の『堂々たる人』や阪口昭の『石坂泰三・この気骨ある経済人』という有名な評伝がある。そこにはたしかに堂々たる人物像や気骨の迸(ほとばし)りが強調して描かれている。
 しかし、城山の『もう、きみには頼まない』は、そういう石坂のギリギリの決断が、むしろどこから生まれてきたかをふっくらと読み切って書いていて、そこが含蓄がある。
 そういう石坂の人間像の本来を掴むにはさすがの城山三郎も時間がかかったろうとおもう。なにしろ東芝社長として乗りこんできた石坂に若手として対抗する立場にあった当時の労組の堤清二(のちの西武百貨店社長)などは、「争議は石坂さんの手で平定されましたが、その石坂さんをあっぱれとみなおすまでには、十数年の歳月が必要でした」と言っていたほどなのだ。

 石坂はつねづね「経営に秘訣なんてものはない。ただただよく勉強することだ」と言っていた。
 こういう理由がある。石坂は勉強量が人並ではなかった。そしてこの人並みはずれた勉強量が他人には「わかりにくさ」として映ったのである。勉強量が破格に多いということは、ちっとも勉強しない連中(自分の周辺の体験だけで自分や他人を判断したがる連中)からすると、このオッサンがどこで何を判断しているのかが、わからない。判断力が発してくる居所がわからない。
 そこでワケシリにこんなことを言う、「いや、ぼくはわかるんだけど、石坂さんのことを他人に伝えるとなると、難しくてね」というふうに。
 しかも石坂は、その勉強の成果をめったに披露しない。結論だけを言う。そのため石坂の言動がとんでもなく難解にも突飛にも映ることになる。ときには朝令暮改に映る。きっとそういうことだったのであろう。けれども朝令暮改とは、判断のスピードがめっぽう速いということなのである。

 昭和28年5月、時の総理大臣吉田茂は、石坂を大蔵大臣にしたくて親書を送っている。石坂はそれをすぐ断った。「官」に尻尾を振らないと決めていたからだ。
 逆に、山下太郎からアラビア湾での海底油田採掘の協力を求められたときは、周囲の大半が反対し、長老の松永安左衛門は「石坂は青二才だ」とさえ非難し、経済記者たちもつづけざまに疑問をぶつけたにもかかわらず、「どうして日本は第二次世界大戦に突入したのか。石油がなかったからじゃないか」と言って、ついにアラビア石油の設立を擁護しつづけた。戦争のプロセスは、石坂が何度も研究してきたことだった。
 こういう石坂が日本経済界に必要とされたのは、池田政権で波に乗った高度成長にしだいに翳りが見えてきてからだった。熱に浮かれていた日本がアタマを冷やす時期がやってきたのである。そういうときに石坂は昭和31年に経団連会長に推された。夫人が事故で死んでからまだ3カ月しかたっていなかったが、あえて石坂はこれを引き受ける。
 そこで副会長に植村甲午郎、事務局長に花村仁八郎をおいて陣営を整えた。東芝のことは石川島播磨重工の土光敏光に任せた。こうしておいて、石坂は経済界のテコ入れに乗り出していく。秘策はない。作戦もない。石坂は熱からさめてアタマを冷やすのでなく、さらに熱をつくることを決意する。
 もうひとつ、「問題が出ること」を喜ぶべきだとした。日本経済に問題があるから自分の出番もあるという方針だったのである。

 しかし、ここで「変更」を嫌う官僚と企業の体質にぶつかる。先にも書いたように、石坂は結局6期12年にわたって経団連会長を務めるのだが、途中で大阪万博という大仕事が入った。
 ところが、これがさっぱりうまくいかない。暗礁に乗り上げたり矛盾が出てくると、二進も三進も進まない。原因は担当者が、変更を拒否して、そういうときにばかり身を堅くするからだった。とくに関西の役人はふだんは陽気で勝手なことを言っているのに、組織のなかでは自分単位の半径しかもっていない。これをどうしたら突破できるのか。まず小坂善太郎に頼んで鈴木俊一を紹介してもらい、事務局長になってもらった。
 石坂によると、日本人には何かの変更を迫ると「もう決まったことですから」と変更を断る連中が7、8割はいるという。さらにどうしても変更を迫ると、「いや、そんなことをすると私の責任ということになりますから」と頑張る。これは責任をとろうとしているのでも、頑張っているのでもなく、責任逃れでしかないと石坂は見抜いている。そのため、こういうときには「じゃあ、責任をとってもらっていいよ」と言うことにしている。
 これで人事が次々に一新できた。「それは私の責任ですから譲れません」と言う連中を、じゃあ、責任をとってやめていいよと言うことにしたのだ。
 大阪万博は予定をはるかに上回る好成績で、6000万人を越える動員と200億円の黒字を生んだ。「変更」による勝利だった。

 おそらく石坂泰三という人物はおもしろくはない人物だったのだとおもう。そのかわり、本当にやる気のある者にしたい放題をさせるのに長けていたのだろう。
 本書をとりあげたのも石坂の人物に惹かれてのことではない。城山三郎の数ある傑作のなかで本書に注目したのでもない(もっとも本書は第44回菊池寛賞をとっている)。本書に書かれているようなことが、いまの日本にさっぱりなくなっているということをいろいろ感じたから、それを記しておきたかっただけである。
 石坂はこういうことも言っている。こんなこと、いまではマスコミに叩かれるだけだろう。「ぼくは確信してるんだがね、ゴルフと英語のうまい奴にろくな連中はいないということだよ」。日本を少年のように扱った男だった。

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