上笙一郎・山崎朋子
日本の幼稚園
理論社 1965 光文社文庫 1985
ISBN:4480081070

 本書は、ある「決断」への踏切台をぼくに見えるようにしてくれた。その理由はあとで書く。
 著者の一人の山崎朋子は『サンダカン八番娼館』や『愛と鮮血』で有名な女性史研究者である。上笙一郎は児童文化研究の第一人者で、童話や童謡についても多数の著書がある。二人は文字通りのパートナーとして本書を著した。1965年の上梓だから、ずいぶん前のことになる。
 本書を著したのは、二人に学歴がないせいか定職に恵まれぬ日々をおくっていたころで、それでも児童文学研究と女性史研究という情熱が二人を支えていた。そこへ理論社の小宮山量平が熱い声をかけた。社長と編集長を兼ねていた小宮山は、戦後日本の編集出版界の“良心”を証した人物の一人で、ぼくもその人となりについては下村寅太郎さんからときどき聞いていた。
 小宮山は二人に毎月印税を前払いし、二人はついに800枚にのぼる本書を書きあげる。題材も珍しかったし、なんといってもその視点が深く斬新だったせいもあって、本書は翌年に毎日出版文化賞を受賞する。「子供たちの姿が見える幼児教育史」というのが受賞の理由だった。

 日本の幼稚園の歴史については、昭和9年の倉橋惣三・新庄よしこ『日本幼稚園史』(フレーベル館)と昭和24年の古木弘造『幼児保育史』(巌松堂書店)が定番である。しかし、これらはいずれも明治初期を扱っていて、その後の流れがわからない。
 ということは、戦後のベビーブームの段階で、日本はいまだ幼児教育の黎明期も変換期も独創期をも捉えなおしていなかったということになる。二人はそこを埋めた。
 埋めたばかりか、初めて日本の幼児が集って何をしてきたかという実態を、その学びと遊びの場をつくりあげた“開拓者”たちの意志と苦闘と工夫とともに、明治・大正・昭和戦前・昭和戦後の時を追って綴った。読んでもらえばすぐわかるように、ここに採り上げられている20ほどの施設の“開拓者"たちの勇気には、われわれがふだんまったく置き忘れてきた「決断」がある。

 日本の最初の幼稚園はおそらく寺子屋のなかにある。
 それが明治に入って、京都の鴨東幼稚園、柳池幼穉遊戯場などに有名な「子守学校」となり、さらに中村正直(敬宇)や関信三の肝入りで、東京女子師範学校(お茶の水女子大)の付属施設として本格化していった。
 幼稚園という概念の最初の社会化の先鋒を担って、明治の初期幼稚園は当然のことにエリートの幼稚園である。保母も藤田東湖の姪の豊田蓉雄に白羽の矢がたつなど、かなり教養のある女性があたった。やがて明治20年代に入ると、民間の篤志家が幼稚園や保育所をつくるようになる。本書では新潟の東港町に設立された「静修学校付設保育所」やアンニー・ハウによる神戸の「頌栄保母伝習所」を採り上げて、その後の幼児教育を担うべき保母の育成がかなりたいへんな仕事であったことを語っている。
 明治の私学創立運動の多くがそうであったように、クリスチャンが多いことも日本の幼稚園づくりの初期の特色のひとつだった。最も代表的なのは華族女学校に務めていた野口幽香・森島峰がおこした「双葉幼稚園」で、ここには巌谷小波・下田歌子・津田梅子・羽仁もと子・瓜生繁子・安井哲子など、当時の著名な“婦人”や“新しい女”が寄付者をはじめとしてかかわった。

 こうして日本の幼稚園は産声をあげていったのだが、たちまち多様な困難に出会うとともに、たとえば「おなはし」「おゆうぎ」などをフレーベル譲りのもの、あるいはアメリカ幼児教育家譲りのものから、少しずつ日本の子供たちの実情にあったものに変えていく努力がなされていった。
 岸辺福雄の「東洋幼稚園」、久留島武彦の「早蕨幼稚園」の章で詳しく紹介されている「口演童話家」の活躍などもそのひとつで、
そこから“桃太郎主義”ともいうべき独特の幼児教育精神が育まれていったことなど、ぼくは本書を読むまで知らなかった。つまりは「和魂洋才」の方針が幼稚園にまで及んだことになる。
 その一方で、貧民の子や孤児を扱う幼稚園や施設などを独力でつくろうという草莽の志をもつ一群も登場してくる。橋詰せみ郎という不思議な名をもつジャーナリストを経験した人物がつくりあげた大阪の「家なき幼稚園」は、なかでも特異な方針をもっていた。一種の自然児教育というか、自然保育がモットーだった。
 橋詰が作詞して山田耕筰が作曲した「家なき幼稚園の歌」は、こんな歌詞になっている。

   天地のあいだが おへやです
   山と川とが お庭です
   みなみな愉快に 遊びましょう
   大きな声で うたいましょう
   わたしがへやは 大きいな
   わたしが庭は ひィろいな
   町の子どもは 気のどくな
   お籠のなかの 鳥のよう

 大正年間、橋詰の「家なき幼稚園」は6園まで広がっている。しかし、実際には中間層の家の子が圧倒的に多く、本来の自然保育が進んだというわけではなかったらしい。
 かくて社会事業的なセツルメントの運動と幼稚園が結びつく時期がやってくる。大阪の北市民館を実質的に育てた志賀志那人はそうした活動の原点のようものをつくった人物だった。ここにおいて分散していた保母たちも初めて協同活動の実感をもっていく。

 このほか、いくつもの幼稚園と設立者が本書には登場してくるのだが、さて、ぼくはこれらのトピックを集めた幼稚園史を読むうちに、自分から一番遠い活動を見ているようでありながら、何だか自分の内側に一番近いものを見ているような気分になった。
 いまは手元にない光文社文庫で読んだのだから、1985、6年のころだったとおもう。なぜそんな気分になったかということを少しだけ書いてみたい。

 ぼくには子供がいないのだが、ずうっと子供のことが気になってきたというささやかな歴史がある。数年前には、自分の仕事の半分くらいをいずれ子供向けにしたいと、あるところに宣言したこともあった。
 かつて『遊』をつくっていたときも、何度か「こども・ゆう」をつくりたいと言っていたし、ある時期は数十組の親子が集まっている施設で、両方に同じ話を語ってみるという“実験”をした。リンゴを両側から齧っているような、望遠鏡をひっくりかえしながら見ているような、なんともいえない充実感があった。
 そのうち幼児や子供のためには、思い切って大人たちが大人の苦闘をストレートに告白するべきではないかとおもうようになった。そこで、たとえばラグビーの平尾誠二、ファッションモデルの山口小夜子、格闘技の前田日明、狂言の野村万之丞、写真家の十文字美信、レーサーの鈴木亜久里、和太鼓の池田美由紀など十数人が、自主的に語り部チームを組んで、地域の小学生・中学生・高校生が集まっているところへ2、3人ずつが行き、「ねえ、ラグビーっていうのはここが辛いんだ」「格闘技といっても心の迷いとの闘いがたいへんなんだ」「ファッションを着るにはクジラや山を着るつもりにならなければいけないのよ」といった話をするのはどうかと、そんなプランが浮かんできた。
 まだ、このプランは実行していないのだが、いつかはぼくが声をかけやすいこうした連中に、「大人が子供にホントーの告白をする集い」のようなことを頼みたいとおもっている。

 このように、ぼくには子供との接触はふつうには考えられないほどに、なんだか「決断」が必要なのである。
 もっと気楽でいいのにという声が聞こえてきそうであるが、どうもこんなふうにならざるをえない。この「決断」感覚が、かつて本書を読んだことに影響されていた。
 それで、この「決断」を少しずつ実際の場面にずらそうとして、いま述べたことのほか、童謡を100曲ほどつくってみようかとか、子供向けのISIS編集学校の教室をネット上につくろうかとか、子供むけのソフトウェアを制作しようとか(これはいまいくつかが進行中)、あれこれ思案中なのである。
 しかしながら、いまのところは何をしても、実のところはまだ隔靴掻痒の感触のなかにいる。ぼく自身が子供を育てたことがないせいなのだろうとおもう。
 じゃあ、松岡さんも子供を作ったらと、女友達に言われることも多い。「大丈夫よ、間にあうわよ。それはさ、松岡さんが問題なんじゃなくて、受け止める女のほうがしっかりしてさえいればいいんだから」と、まるでぼくの甲斐性なんて歯牙にもかけずに叱咤してくるのだ。いったい励ましてくれているのか、実は馬鹿にしているのかは、わからない。
 ともかくも、ぼくにとって「こども」はぼくの「失望」の裏返しのものになりすぎてしまっている。きっと、これではまずいのだろうとおもう。しかしながら、ぼくのなかに少しずつ「決断」が姿をあらわしはじめていることも、事実なのである。

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