クリス・ミード
フクロウの不思議な生活
晶文社 2001
ISBN:4794946996
Chris Mead
Owls 1987
[訳]斎藤慎一郎

 山下菊二という画家がいた。河原温・中村宏・赤瀬川原平らとともに戦後の日本美術に新風を送りこんだ画家だが、戦争画についても一見識をもっていた。
 その山下菊二の家に行ったことがある。うすうす噂には聞いていたものの、ほんとうに腰を抜かした。小さな家に(部屋といったほうがふさわしいが)、フクロウが十羽近く放し飼いされている。話をしていても、ときどきバタバタとこちらの家具からあちらの棚に飛んでいく。翼はとてつもなく大きい。それも室内。飛ぶたびに得体のしれぬ怪物が武装した翼を切ってわがもの顔に滑降しているようなもので、こちらの首がすくむ。
 当然に部屋中が糞だらけで、奥さんが化粧をする小さな鏡もそのまわりも、フクロウの毛と糞でまみれている。
 さすがにこれには呆気にとられた。動物と暮らしている人に、ぼくはたいていは強い共感をおぼえるのだけれど、都会の真ん中で自分たちの生活をほとんど犠牲にしてまでも、室内でたくさんのフクロウと共棲している夫婦というのは、よほど珍しい。
 なぜ山下菊二はフクロウを選んだのだろうか。そうした愚問を何度か発してみたのだが、山下さんはニコリともしないで「あのね、飼ってごらんよ。たまらなく可愛いから」といったことを言うばかりなのだ。
 それからである。フクロウは格別な珍獣としてぼくの脳裏を去らなくなった。

 フクロウは猛禽類である。それも白昼のワシやタカに対するに、夜陰の猛禽類にあたる。
 たしかに嘴は近くで見ると恐ろしいほど鋭く曲がっているし、足も頑丈で爪がヤスリで磨いたように尖っている。そして巨大な目。室内で見るフクロウがこちらをじっと睨んでくるのを見ていると、みるみるその目が大きくなっていくような、ちょっと騙されたような不思議な驚嘆をおぼえる。本書によると、体の大きさと目の比率では魚類・昆虫・トカゲ類を別にすれば、フクロウは動物界随一である。この目、この爪、この嘴で、獲物を捉え、滑降して獲物を攫う。夜を支配する空飛ぶ猛禽類なのだ。
 しかし、全体の印象はぶくぶくと丸くて、その大きな目は何かを見つめているようで、やたらに評判がいい。ケルト神話でもグリム童話でも森のフクロウは定番であり、夕方にミネルヴァの梟が飛ぶといえば、女神アテナが変身して賢者の知恵を告げるときの比喩にさえなっている。
 どこで知恵の使者となったかはさだかではないが、どうやら小アジアに棲息するコキンメフクロウがちょっと太った人間の姿に似ていて、その吸いこまれるような黄色の目が神話に語られるにふさわしかったせいだったらしい。
 それというのも、フクロウが直立して枝にとまる鳥類であることが、人間との類比をおもいおこさせたからである。だいたい古代人はどんな対象をも擬人化することから物語と哲学の基礎を開始したわけで、その点からいっても、地中海におけるフクロウと南海におけるインコの直立性は、人間化するに最もふさわしい鳥となる条件に富んでいた。

 フクロウには耳が左右対称になっていないものが少なくない。左右で別々の周波数をキャッチするためらしい。
 夜行性なのでむろん耳が発達しているのだが、あのホーホーという鳴き声もいろいろ工夫したうえでの鳴き声らしく、強風がなければ2キロ四方に届くという。
 しかし、耳がよく声がよく通るのなら、なぜあんな大きな目をもつ必要があるのか。収束進化なのである。いろいろ環境適応の条件を揃えているうちに、同じテリトリーを共有する他の動物たちの機能に匹敵するための進化が極まっていくことを収束進化というが、フクロウの目もそのひとつで、他の夜行性の動物たちと競っているうちにこんなに大きな目になった。大きいから機能が図抜けているのではなく、気がついたらバカでかくなった。
 本書にもかなり詳しい生態が記録されているが、フクロウの生活は夜行性のわりにはかなりわかっている。これはフクロウがペレットを巧みに吐き出す能力に長けていて、そのためペレットの分析によって世界中のフクロウの棲息分布や食事生活の全貌がわかるようになるからで、逆にいえば、フクロウは自分の食餌をきちんと限定できず、ともかくやたらに食べて消化できないものをペレットとして吐き出すという、まあ横着なところがあるせいだった。
 ぼくは経験がないのでまったく見当がつかないのだが、ペレットの収集研究をやりはじめると、たいていの鳥類ファンは魔にとりつかれたように鳥の糞を見て一年をおくるようになると聞く。

 フクロウの起源は白亜紀あたりに起こった夜行性の鳥の祖先である。この祖先はヨタカの起源でもあって、ぼくもアメリカの自然史博物館で何種類かの化石を見た。ここからモリフクロウ、メンフクロウ、ミミズク、アオバズク、コノハズクなどに分化した。日本にいるのはウラルフクロウ、アオバズク、コノハズク、ミミズク、シマフクロウなどで、里でホーホーと鳴いているのはアオバズクである。山下さんはコノハズクから飼いはじめて、しだいに巨大なシマフクロウに向かっていった。
 なぜ山下さんがあんなにフクロウに執着したかということは、あとでわかった。福本和夫に『唯物論者が見た梟』という異様な一冊があるのだが、これを読んだらしい。以来、山下菊二はフクロウを革命家とみなしてきたという。

 「聞きなし」の言語文化というものがある。動物の鳴き声を地域や国語のちがいによってどのような擬声語にしているかということで、これを「聞きなし」という。
 フクロウの鳴き声もホーホーとはかぎらない。ウーフー、ケューケュー、キーウィック、シューシュー、トゥイット・トゥフー、ポーポーブなど、いろいろに聞きなされる。日本にもかなり愉快な聞きなしがあって、「五郎助ホーホー」はともかくも、国粋主義者が
聞き分けたのかとおぼしい「フルツク亡魂」、いささか儒教っぽい気もする「ぼろ着て奉公」、家事のかたわら主婦たちが聞き分けたらしい「糊つけて干せ」など、それを知るたびに「音はふるまいである」という文化を考えさせてくれる。ことにティークやシュレーゲル兄弟やホフマンらのドイツ・ロマン派の連中は、フクロウの鳴き声に詩情をおぼえたのみならず、フクロウのごとく夜陰に思索することをフクロウに託して重視した。
 ことほどさようにフクロウが興味尽きない「夜の鳥」であることはぼくもあれこれ重々承知したのだが、さて禽獣屋や動物園でフクロウに近づくと、ふと山下菊二宅の怱絶な光景があらわれて、それ以上にフクロウに近づくことを阻むのだった。

参考¶福本和夫の『唯物論者の見た梟』はながらく見つからなかったが、三一書房の「日本民俗文化資料集成」の第11巻に収録されていることがわかった。福本には『フクロウ・私の探梟記』(法政大学出版局)もある。フクロウは"森の神"ともいわれているが、この点については嶋田忠『シマフクロウ・闇のカムイ』(平凡社)や山本純郎『シマフクロウ』(北海道新聞社)が、フクロウの文化をめぐっては飯野徹雄の『フクロウの民俗誌』(平凡社)、『フクロウの文化誌』(中央公論社)が一人でカバーしてくれている。

コメントは受け付けていません。