平田雅哉
大工一代
池田書店 1961 建築資料研究社 2001
ISBN:4874606970

 村野藤吾は平田雅哉には「大棟梁の面影」があったと言った。福田恆存は平田という大工の名人は「自分のことを他人に語らせるのも名人だった」と書いた。今東光は「飯ものと大工仕事と庭づくりはなんといっても大阪のもの」と書いたあと、なかでも平田は「浪花の大物」だったと述懐した。
 もとは堺の大工の息子で、その父親に仕事を習えばいいものを、父親がとんでもない極道者だったので、当時、大阪に黒徳清平・三木久と並ぶ大工三羽烏というのがいて、その一人の藤原新次郎の弟子に入った。これが平田雅哉の若き日々になる。
 藤原棟梁が木津宗泉の門下だったから、平田も系譜のうえでは木津門下に入る。木津宗泉は武者小路家専属の数寄屋大工で、自分で茶も嗜んだ。昔はそんな棟梁が大阪にごろごろいたものだ。

 平田はこの本のなかでは自分のことをさかんに「茶の間大工」と言っている。これは大工仲間の符丁であって、どうして茶の間なんぞではない。ふつうなら数寄屋大工とか茶室専門の棟梁ということになる。
 ところが、平田は茶室を茶室として作るのが嫌いで、たとえば西洋人が茶室を気にいって作りたいと所望するなら、うんとタッパのあるものでもよろしいという見方なのである。躙口などもふつうは二尺六寸が基準だが、平田は二尺八寸ほどの大ぶりにする。これも日本人の体付きが大きくなったことに合わせているのだという。それに応じて床もスケールを変えた。
 数寄屋を複合的に見ていたわけだ。だいたい数寄屋は御殿と茶室の合い子なのだから、この「合い」をちゃんと作るのが腕なのだという見方なのである。
 実際にも茶室ばかりを作ったわけではなかった。ぼくがゆっくり平田棟梁の仕事を味わえたのは、熱海の大観荘に裏千家の伊住政和宗匠に招かれて一夜をともにしたときで、さすがに食べたり泊まっ
たり風呂に入ってみて、感心した。どんなところも間合いが格別なのである。
 それまででも吉兆も万亭も招福楼も雲月も知っていたが、これは客と一緒に食べに行くだけなので、どうも意匠をたっぷり味わえない。それが大観荘のときは伊住宗匠の好意もあって、ゆっくり見させてもらった。大観荘はもともとは中山悦治(中山製鋼所創立者)の別荘として昭和15年に普請したもので、戦後に旅館になってからも棟梁が少しずつ手を入れてきた。
 こういう平田棟梁が何を言うか興味津々だが、口は悪いが、案外ホロリとさせる話が少なくない。

 本書は昭和30年代に「大阪手帖」に5年をかけて聞き書きされた「工匠談義」を、池田書店が一冊にまとめた。そのころ棟梁は還暦をこえていた。聞き手は内田克巳。
 すでに芦原のつるや旅館、なだ万、錦戸、吉兆、城崎の西村屋、八日市の招福楼などを手掛けていた平田棟梁の職人魂が溢れたこの一冊は、すぐに評判になり、東宝はさっそく森繁久弥を主演にして『大工太平記』を制作したほどだった。これはぼくも父に連れられて見ていて、よくおぼえている。のちに森繁は、この映画で棟梁が弟子を叱るところの次のセリフが忘れられないと書いた。
 「ええか、よう聞けや。おまえの傷は舐めればなおるかもしれんがな、この柱の疵は永遠に直らんのや。わかったか!」。
 こういう職人なのである。会っておきたかった。もっとも、その機会がまったくなかったというのでもなかった。

 実はぼくの父が平田棟梁と多少の昵懇で、仕事を頼んだことはなかったとおもうのだが、あとで聞いたところでは湯木貞一(吉兆主人)さんから紹介されたらしい。
 ひるがえって、吉兆の建物はそもそもは当時の目利きとして有名な美術商「米山居」の児島嘉助の高麗橋三丁目の本宅と嵯峨の別荘をもらいうけたものである。父はその児島翁に一、二度呉服の誂えを頼まれていた。父は「えらい目が利く人やけど、こわい人やった
な」と言っていた。いつも葉巻を口にしていた有徳人である。きっと父は児島翁から湯木さんを、その湯木さんから平田棟梁をどこかで紹介されたのだろう。

 その高麗橋の児島本宅については、本書にも棟梁らしいエピソードが紹介されている。
 ここは棟梁が初めて鉄筋コンクリートを採り入れた和風建築で、間口7間、奥行12間、170坪の普請。10カ月をかけた。児島翁は予定通りに完成したので、3000円を手間とは別に包んだが、これを棟梁は断った。だいたい祝儀を受け取らない男なのだ。
 ところが、落成直後に児島さんから夜中に電話があって、火事だという。棟梁はアイクチ一丁を懐に飛び出した。タクシーが高麗橋の三越に近づくと、さすがに棟梁の胸は高鳴った。もし自分の仕事の不備で出火したのなら、アイクチで腹を掻き切ってお詫びをしなければならなかったからだ。
 さいわい、火事は煙突の故障で煙がまわった程度だったので、棟梁は腹を切らなくてすんだ。そういう話である。
 こういうぐあいに義侠心も強く責任感も強い棟梁だが、一方、そうとうに頑固で、自分が作ったものには絶対の自信があったから、なかなか施主の勝手を許さない。同じ高麗橋の児島本宅が吉兆に衣替えするときも、湯木さんは二階の「残月」の大きな八尺書院付きの床の間が料亭にはふさわしくないから取り払ってほしいと注文を出したのに、棟梁はこれを断っている。いまの吉兆にのこる八尺書院はその勇姿である。

 最近は職人の話をまとめた本がかなり多く出回るようになった。そういうブームになったのは何がきっかけかは知らないが、おそらく平田雅哉の存在が大きかったのではないかとおもう。
 しかし、本書のように「懐が大きな本」というのは、やはり希有である。
 本書はいたるところに大工職人のコツと心得が述べられていて、いまさら日本の失った職人芸を惜しむ気持ちが募る一冊になっているのだが、その一方で、16歳で母を亡くし、夫人を二度亡くし、愛息も失った名人の一徹裏にさすらう悲哀というものも随所に滲み出ていて、たしかに森繁が森繁流の映画にしたくなったのも理解できるドラマ性にも富んでいる。
 もうひとつ気にいったのは、棟梁が暴れ者で、頑固で、仁義を通す男でありながら、まったく酒を嗜まないということだった。それだけでなく、この棟梁は酒を呑んでごまかす職人が大嫌いだといって、さかんに酒と職とを分断することを勧めている。
 加えてもうひとつ、この棟梁は大阪のいとはん上がりのおばはんが大嫌いで、こういうおばはんがお喋りばかりするようになってから大阪の文化がダメになったと嘆いている。これには妙に納得できるものがある。
 そのかわり棟梁はこんなふうに自分の心情を語っている。
 「わしを信用せんのやったら寄ってくるな」「大阪の工夫と関東の気っ風。この両方が上方には必要なんや」「どんなときでも、うろうろする奴が一番あかん」「この人は偉い人やとおもうたら、その人のことが盗めるまで、自分の文句を言うな」。

参考¶平田雅哉の仕事は『数寄屋建築・平田雅哉作品集』(創元社)、『新数寄屋造り・平田雅哉作品集』(毎日新聞社)、および建築資料研究社の和風建築シリーズ全8巻などで見られる。

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