川上弘美
センセイの鞄
平凡社 2001
ISBN:4167631032

 今晩は何ですか。何のこと? 千夜千冊ですよ。ああ、川上弘美にしようかなと思って。えーっ『センセイの鞄』ですか、あれ、入るんですか。うん、そうしようかなと思って、これから書こうかなと思ってたところ。松岡さんもセンセイされたい歳になったんじゃないですか。
 (ちょっと慌てて)いや、そういうことじゃなくて、ただ話題になってたんでね。谷崎潤一郎賞だったよね。どんなものかなと思って読んでみた。で、どうでした? やっぱりセンセイされたくなったんでしょ。べつにセンセイされたいとかね、センセイしたいっていうんじゃないよ。でも松岡さんはセンセイされたい人ですよ。そうかなあ。ええ、もろ顔に出てます。(たじろいで)そりゃまずいね。まずくないですよ。みんなそう思ってますよ。みんなって? ええ、みんなわかってますよ。
 (気色ばんで)でも、そういう話じゃないんだよ。ブンガク、文学です。なかなかの純文学。それはそうかもしれないけど、内容はだって、センセイの鞄でセンセイを偲ぶ女の子の話でしょ。田山花袋の逆女学生版なんじゃないですか。ははは、ぜんぜん違う。だいたい主人公は女の子じゃない、38歳になる大人の女性だよ。それが「わたし」なんだよ。

 でも相手のセンセイは老人でしょ。うん、老人だけど、枯れた老人でね。ほうら、やっぱりその老人がセンセイなんでしょ。
 (また気色ばんで)その、さっきから老人、老人って、どうして強調するの? ぼくと関係あるの? 松岡さんが老人というんじゃないけど、松岡さんは若いときから老人したかったんでしょ。そう書いてたじゃないですか。うん、まあね。だから松岡さんはこういう話は好きなんですよ。そうかなあ。しかもセンセイをそこはかとなく鞄で偲ぶなんて、松岡さんが好みじゃないですか。
 いや(また慌てて)、センセイといってもね、その「わたし」が高校時代に習っていたころの国語のセンセイなんだな。でもフリンするんでしょ。(弁解がましく)いやフリンじゃなくてね、しかもそのセンセイの奥さんはもう亡くなっているんだ。
 いいじゃないですか。愛しあうのは年齢も家族制度も関係ないですよ。そういう社会論がどうこうというんじゃなくて‥。で、結局はフリンするんでしょ。うん、いずれはね。ほら、やっぱり。あのね、純文学を予想したり、男と女の関係を当てたってしょうがないよ。予想するからおもしろいんじゃないですか。
 (だんだん押され気味に)そりゃまあ、ちょっとは予想したっていいけど、そしたら読まなきゃ。千夜千冊読んでから、おもしろそうなら読みますよ。それでもいいけどね。

 それにしても、松岡さんがこういう女性の感覚をどう書くのか、ちょっとたのしみだな。困ったねえ。書きにくくなる。それはね、松岡さんがやっぱりやましいんです。
 (また、ひるんで)そんなことはないよ。いいえ、やましいんです。そうかなあ。だいたい千夜千冊に川上弘美が入ることじたい、やましいんですよ。そこまで言うかなあ、飯島愛じゃないんだよ。川上弘美がやましいんじゃないんですよ。『センセイの鞄』というタイトルに惹かれて、それをとりあげるのがやましい。
 (またまた気色ばんで)そんなこと、ないよ。淡くて、情報がひとしきり少なくて、薄くてね。そういう小説だよ。きっとそうなんでしょうね。香りもある。江國香織みたい? うーん、スイカの匂いねえ。それそれ。落下する夕方ねえ。そう、それ。ちょっと違うね。同世代的じゃないし、やっぱり小説の技法というのをよく心得た物語だね。
 うまいんですか。うん、なかなかうまい。だいたいはどういう話なんですか。うーん、筋書き言ってもしかたがないんだけど、大町ツキコって女性が飲み屋で昔のセンセイに会うところから始まるんだね。ふーん、なんだか大町桂月みたい。うん、月はいろいろ出てくるね。最初の章は「月と電池」っていうんだ。へえ、イナガキタルホみたい。まあ、ボール紙の看板はね。でも、話はあくまでツキコがセンセイに、センセイがツキコに、それぞれ思いをほんのりと心を寄せていくというもので、大人の恋愛小説だよ。

 それから? それからって、あとは千夜千冊読んでよ。じゃあ、筋書き書くんですね。そうか、書かないな、筋書きは書かないね。何、書くんですか。それをいま考えてる。はやく読みたいな。それなら本体を読みなさい。なんか参考になるよ。
 参考になるってフリンの? (ちょっと苛々して)フリンじゃないって言ってるだろ。しつこいようですけど、そのツキコには旦那とか恋人はいないんですか。(めんどうくさそうに)ボーイフレンドはいるね。ふうん。
 でも、あのね、ぼくはそういう調査に答える気はないんだよ。この作品はもうちょっとなんていうのかな、進行とか叙述の消去が効いているっていうのかな。ふうん。襞と境目を綴っているっていうのかな。はいはい。作者のごく小さな領域の感覚をうまくセンセイとツキコにそれからお店の中とか、そこに出てくる突き出しふうの料理の名前とかに振り分けてるんだね。はいはい。そこに僅かなオブジェをちょっとずつ差し挟んで叙述しているところが、おもしろいんだね。そういうところが参考になるとおもう。
 わかりました。読みます。で、それはそれとして、松岡さんは寂しがりすぎですよ。また、そういう話? ええ。寂しがり屋なのはしょうがないよ。それじゃ、まわりが困ります。じゃあ、なんとかしてくれればいいじゃない。ほれ、それが困るんですよ。センセイされたがっている。
 それをいうなら、もうセンセイも終わり近くになっているよ。終わりですか。うん、センセイはね。それじゃ、その前にセンセイの鞄を貰っとかなきゃ。どういうこと? だってセンセイ、最後に死んじゃうじゃないですか。
 あれっ、読んだの? へへへへ、そりゃ読んでますよ。ひどいなあ。じゃあ、なんでこんなにいろいろ聞くんだよ。だって、松岡さんはやっぱりセンセイなんだもの。わたしだってツキコしたいじゃないですか。

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