ドナルド・キーン
百代の過客
朝日選書 1984
ISBN:4022593598
[訳]金関寿夫

 本を買うという行為には、一種の季節やリズムや食欲のようなものがある。
 衝動買い、調べる都合でのむだ買い、何かの本を読んでいてそこから波及してきた本、書店で泣いて訴える本、本を入手する動機は一様ではありえない。旅先の小さな書店にふらりと入ったら、そこに宿敵のように一冊だけ待っていてくれた美徳な本もある。休日になって突然に部屋の本棚にない本が読みたくなって自転車で書店に走り、そうやって買ってみてそばの喫茶店で読みはじめたら「ああ、これじゃない」と思って方向転換をし、また書店に飛びこんで入手する薄幸な本というものもある。やっぱり古典だと、そんなことはわかっているのに書棚の前で自分を納得させて買う本もある。
 食わず嫌いだった著者たちの本、たった5分があいたので慌てて駅で買う本、ずっと前に買っておいたのにそれを忘れてまた買ってしまった本、いろいろである。
 しかしどんな本との出会いであれ、それは自分で行く先を決めて買った切符に従って、どこか彼方に踏み出していく一人旅なのである。しかも乗り換えがあり、途中下車があり、宿泊や逗留もそこには待っている。読書とは、まさに自身を一身百代の過客にすることだ。

 本書を買ったのは、当時はよく赴いていた渋谷の東急プラザ5階にある紀伊国屋書店だった。その前は大盛堂を愛用し、その次は東急文化会館のユーハイムの上でプラネタリウムの下の三省堂だったのだが、そのころはもっぱら紀伊国屋になっていた。
 どの書店で買っても本は同じだと思ってはいけない。その一冊をどの服装で、どんな寒い夜に、どの棚から抜き出したかという記憶がちがってくる。それは見知らぬ温泉のどこかの旅館にいつごろ入って、最初に窓外に何を見たのかということにあたる消息なのだ。
 十数年前の春の彼岸前。渋谷紀伊国屋。そのときは新書を買いに入った。そういう買い方をするときもあ
る。文庫を買うとか、雑誌を買うというのは一番ふつうの買い方だろうが、そのときは新書を見たかった。ちょっと視点が異なる本を読みたい。新書にはそういう企画が多い。が、そのときの書棚には新書にめぼしいものがなかったのだろうか、選書や双書の棚に目が泳いで、本書に出くわした。
 『百代の過客』は「朝日新聞」に連載しているときにもときどき読んで気になっていたものだったが、そうか、いよいよ本になったのかと手にとった。上下二冊である。連載ものが本になるというのは、次々に花を咲かせていた樹木に季節が乗って、新たに見ちがえるような果実の姿が出現したようなもので、なんだか見とれてしまうものなのだ。そのころ「嬉しい本」を買ったときは、他の「必要そうな本」は買わないようにしていた時期である。さっそく東急プラザの2階の「フランセ」で、ゆっくりと目次を開いた。
 ぼくはこのようにして、『百代の過客』に出会ったのである。

 キーンさんは、戦時中に戦場に遺棄された兵士のノートを翻訳する仕事についていたころ、日本人の兵士の日記とアメリカ人の兵士の日記に著しいちがいがあることに気がついた。
 日本人がつねに状況よりも内面を吐露しているのに対して、アメリカ人は状況メモとメッセージが多い。そのうち日本の古典的日記を読むようになって、世界中でこれほど日記に内実を賭けている民族はいないのではないか、ここには何か日本の秘密があると確信するようになった。
 さらにキーンさんが驚いたのは、芭蕉の『奥の細道』と曽良の随行記を比較するとよくわかることなのだが、芭蕉は実際におこったことを必ずしも書いてはいなかったことである。「あらたふと青葉若葉の日の光」の日光を訪れた日は雨だったし、芭蕉は中尊寺金色堂のことを綴っているものの、曽良は実際には当日は金色堂を開けてくれる人がいなくて、二人ですごすごそこを立ち去ったと書いている。
 こういうことから、どうも日本人の日記はたんなる日記ではなく、やはり重要な文学だとおもうようになったというのだ。
 そもそも日記文学の劈頭を飾る貫之の『土佐日記』にして、「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」であって、強烈なチェンジアップをかけている。読者を操っている。当時の慣習なら貫之は漢文で書くべきところを、おそらくは和歌を入れたくて女に身をやつしたのだろうが(漢文を綴ることは漢詩を入れること、和歌を排除すること)、こんなことは海外の日記ではめったに考えられないことだと、キーンさんは驚くのだ。

 こういう指摘をいろいろ貰いながら、ぼくは不案内の日記の繁みに入っていったものだった。日本がバブルに沸き立って、ゴッホに大枚をはたいていたころだ。ぼくは日記を通して百代の過客となり、読書を通しての百代の過客でありたかった。
 それにしてもちょっと変な感覚だった。バーナード・ルドフスキーに四谷市ケ谷を案内されているようなというか、オギュスタン・ベルクに北海道開拓史を聞きながら屯田兵の跡を辿っているようなというか、青い目のおじいさんに歌舞伎の格別の説明をうけているようで、粛然とはするのだが、どこか擽ったい気分。

 キーンさんが案内している日記はまことに多い。  円仁『入唐求法巡礼行記』にはじまって、56首の歌を織りこんだ『土佐日記』、実に300首をこえる歌とともに女の自画像を率直きわまりない感情で綴った『蜻蛉日記』、ぼくも第285夜にとりあげた『和泉式部日記』、キーンさんは失敗作ではないかという『紫式部日記』、事実よりも夢の中でおこったことを大切にして物語想像力ノートとでもいうべきを試みたため、キーンさんにふとブロンテ姉妹の日々を思いおこさせた『更級日記』、藤原高光日記ともいうべき『多武峰少将物語』、ぼくにはつねに母との共通性を感じさせるのだが、84歳の老女が夢にも現にも脳裏から離れない息子のことをのみ主題にした世界文学史上類例のない『成尋阿闍梨母集』、二つあわせて読むと堀河・鳥羽・崇徳の時代がレリーフされる藤原長子の『讃岐典侍日記』と藤原宗忠の『中右記』‥‥というふうに、まず平安期の日記群がすすむ。
 ここから100年ほど『建礼門院右京大夫集』や健御前の『たまきはる』まで、日本には女性による日記が登場しない。キーンさんはその理由を誰かが考えるといいと書いていたが、この理由はその後何かの見解が出たのだろうか。
 このあとは定家『明月記』、公家日記としては珍しい倭語の『源家長日記』、増基法師『いほぬし』、源通親の随行記『高倉院厳島御幸記』と『高倉院昇霞記』、日本語がいよいよ音読みを引きこんで変質しつつあることを示す『海道記』、日本人の絆が何たるかを考えさせる『信生法師日記』とすすみ、以下、芭蕉が決定的な影響をうけた『東関紀行』、阿仏尼の『うたたね』『十六夜日記』、飛鳥井雅有の『春の深山路』などの日記、「をかし」を綴った『弁内侍日記』と「あはれ」を綴った『中務内侍日記』のいわゆる姉妹日記、二条が後深草院との交情を絶妙に綴った『とはずがたり』、日野名子の『竹むきが記』とつづく。
 なかでは出家前の阿仏の『うたたね』と二条の『とはずがたり』がキーンさんにとっても、ぼくにも極上である。

 下巻は室町の坂十仏『大神宮参詣記』以降、江戸幕末の佐久間象山『浦賀日記』まで。宗長や幽斎や芭蕉をのぞいて、ぼくがまったく読んでこなかった日記の数々がさらに50冊以上並んでいる。げにドナルド・キーン、何者なるぞ。
 気になって、多少は繙くことになったのは、まず二条良基の『小島の口すさみ』と正徹の『なぐさめ草』。良基のは美濃の小島を訪れた印象記である。正徹も尾張と美濃のあいだを流れる墨俣川を描写しているが、連歌師という言葉の職人が道々の景色や出来事から何を書きとめるか、すこぶる興味深いものがある。
 しかし二人が共通して見ようとしていることは、根底では揺るぎない。それは「風雅の直(すぐ)なる交ひ」なのだ。
 この「直なる」というところが、その後、われわれが「風雅」や「幽玄」を"概念"として理解してしまってから、すっかり忘れていることだった。

 本書を通じてキーンさんも書いていることだが、貫之も和泉式部も宗長も芭蕉も、べつだん目新しいことをしたいなどとはまったく思っていない。古人が求めるところのものを辿って求めたい。まずそこなのだ。
 「先人によって見逃された風光に初めて着目する野望は、毛筋ほども持ち合わせなかった。それどころか、昔の歌に詠まれた所でなければ、いかに壮麗無比の風景であろうと、芭蕉の感興を唆ることはなかったのである」と、キーンさんも書く。
 この感覚をたんに「本歌取り」とか「古人を偲ぶ」というふうな説明にしてしまっては、かえってわからない。むしろピアニストがバッハやショパンを弾きたいという感覚、それを何度も聴衆も聞きたいという感覚を持ち出したほうがわかりやすい。そこではピアニストも聴衆も、とんでもなく新奇なもので度肝を抜かれたいと思っているわけではなく、むしろそこに新しい知性が微妙にはたらいていることを感じたいわけなのだ。
 そこに歌枕の作用というもの、花鳥風月というもの、旅の漂泊というもの、時の景気というものが加わって、さらに和歌や俳諧の律動が胸を衝くとき、日本人は日記にさえ「風雅の直なる交ひ」を綴りたくなった。また、そうでなければ「辛崎の松は花より朧にて」とはうたえない。

 本書下巻の後半では、貝原益軒の『西北紀行』、白拍子の武女らによる『庚子道の記』、荻生徂徠の『風流使者記』があることが目をひく。
 とりわけ益軒の『西北紀行』が、芭蕉が『奥の細道』を綴っているちょうどそのときに丹後・若狭・近江を廻っていた記録であったことには、まるで、そうか、アナザージャパンはこういうふうに出現していたかというような驚きがあった。それは『井関隆子日記』の著者が"江戸時代の清少納言"とよばれるほどの日記をつけていたということより、ずっとぼくを驚かせた。
 しかし、もっと慌てたのは、なんといっても山崎北華が蕉風すたれつつあるころに綴った『蝶之遊』である。北華は俳諧史にもあまり顔を見せない奇人ともいうべき人物で、芭蕉に倣って大半の「奥の細道」を歩き、そこで次から次へと芭蕉の句を「胡蝶の夢」にしてしまっていた。
 諧謔である。見立てである。これは慌てる。なんというのか、あえていうのなら日本にはイタロ・カルヴィーノを俳諧にする奴がいたんだという狼狽。

 こうして『百代の過客』の過客となったぼくの遊書歴書倣書の旅は、それがいったいどのくらいの所要時間だったのかはわからないが、キーンさんの案内から歴史の中の日記へ、その数行へ、そこから原著を入手しての滞在へ、また夜が明けるとそこからキーンさんの言葉の確認へ、そこからまたまた芭蕉に戻るというような、次から次への「ぼくの細道」になったわけである。
 読むとは、それにしても果てしないものだ。その読むこと、読んだことをこんなふうに綴ってみることも、またどうやら果てしない。

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