日高敏隆
ネコはどうしてわがままか
法研 2001
ISBN:4879544078

 日高敏隆さんが日本のエソロジー(動物行動学)の母胎づくりに与えた影響は途方もなく大きい。すぐれた啓蒙家でもあったし、またエソロジーの成果を日本のリベラル・アーツの底辺に打ちこんだ恩人でもある。
 翻訳力が群を抜いていたのでコンラッド・ローレンツからリチャード・ドーキンスまで、厖大な海外のエソロジーの名著を紹介してくれた。しかもその大半が生物界をめぐる科学者たちの「思索」や「意図」に関係するもので、たんにエソロジーの業績を誇るものではなかった。
 そのうえでいうのだが、日高さんは変な人なのである。
 東大理学部の動物学科を出て、東京農工大から京大に移り、さらに最近は滋賀大の学長を務めあげた人を変な人というのは申し訳ないが、そうとうに変な人なのだ。

 だいたい大学教授として、最初にパンタロンを穿いて大学に行った。これは村上龍がアルマーニを着つづけていることくらい変である。次に、これははたして「大学教授の奇矯な日々の歴史」に記録できるような"最初の人"かどうかはわからないのだが、噂によれば最初にジーンズで教壇に立った教授なのである。
 しかしぼくは、ジーンズよりもパンタロンを最初に穿いたことがエソロジストらしい大胆な選択だったとおもわれる。それを突然変異というか、環境適応というか、ニッチの発見というか、そこはわからない。
 次に、あれほど数々の名著の翻訳書を世に送ったのに、その連中の思想の肩をもたない。つまり贔屓にしないのだ。むろん非難がましいのではない。世界の偉い先生は先生であって、自分は自分でいいんだというところがある。これはローレンツからドーキンスにいたる訳書の「あとがき」にもあらわれていて、日高さんはろくな解説をしないのだ。
 ふつうは得々として原著のよさを必要以上に強調し、原著者といかに親しくオックスフォードの研究室でコーヒーを飲み、そのときの片言切句にも原著者のオリジナルな思想が踊っていたというような、ハーヴァードのファカルティ・クラブで声をかけられて「君の見解にはキラリと光るものがあるね」と言われたというようなことを書くのに、そういうことをしない。
 当初、ぼくは、この人はそういう解説能力がないのかとおもったほどだった。
 そうではなかったのだ。自分の言葉で生物を語ることに徹しているだけなのである。まるですばらしい料理人が自分の食事が慎ましいといったような、そんな印象なのだ。

 ぼくは日高さんが京都に越してから親しくなった。親しくなったのはエソロジーのせいではなくて、ネコのせいである。
 なにしろ日高家にはネコが多かった。多すぎた。しかもそのネコの世話をするのは先生ではなくて奥さんである。そこでぼくが日高夫妻と北山通りの喫茶店でお茶でも飲もうなら、奥さんは先生がいかにネコを理解していないか、それはそれは国際会議で宿敵を破るような雄弁をふるう場面に居合わせることになる。ところが、先生は反論ができないのだ。
 これは変である。先生は動物行動学者で、ローレンツの『人、犬に会う』や『ソロモンの指輪』を訳した人なのである。しかもネコどころか、『チョウはなぜ飛ぶか』といったもっと説明しにくいことを説明できる人なのだ。それが自宅のネコのことくらいで国際会議の議論に負けるはずがない。
 それが完敗なのだ。からっきしなのである。
 むろんネコの問題に入る前に、人間のオスとメスの関係の難しさを人前などでは議論しないという先生のダンディズムが禍いしているのだろうと、その場に居合わせたすべての友人・知人は忖度するのであるが、それにしてもなぜネコには弱いのか、実は周囲一同はまったく理解できなかったものでもあった。
 本書はその日高先生が『ネコはどうしてわがままか』というタイトルで復讐をとげようとした本である。これはどうにでも紹介しなければなるまい。

 そこで勇躍、本書を読んでみたが、なかなかネコが出てこない。
 最初はぼくは子供のころから春が好きで、梅にウグイスとはいうけれどあの鳴き声は美しいだけではなく縄張り争いをしているのだとか、ゼンマイが芽吹くのを見ているとほんとうに心が躍るとかなんとか書いて、そのゼンマイにはゼンマイハバチがいてゼンマイを操作しているのだとか、ギフチョウが4月に羽化するのは温度のせいだから、冬眠中のサナギを適当な冷蔵庫に入れるときれいなギフチョウが出てきますというような、まるで春を欺くような話ばかりが書いてある。
 まあ、これは前段だからいいやと読み進むと、春にはドジョウも出てきますね、とある。そしてドジョウが何を食べているかとか、オタマジャクシの群には変わった性質があって、一匹のオタマジャクシが敵によって傷つくと、その一匹から恐怖物質が出て、他のオタマジャクシが一斉に逃げられるようになっているという話になっていく。
 つまり先生はネコに自信がないのである。それだから、「カエルの合唱はのどかといえるか」とか、「ヘビの走る速度は獲物の早さに追いつかないのはなぜか」とか「カタツムリは雌雄同体なのになぜ交尾する必要があるんだろうか」というような、もちろんそんなことを聞かれたら「はてな?」とは思うけれど、だからといってその答えを知ったから日々の生活が充実するわけでもないようなことばかりを、次々に連射するのだ。

 それでもちょっと役に立ちそうなことも書いてある。
 それは話がいよいよテントウムシの段になって(どこがいよいよかはわからないが)、なぜテントウムシはあんなに屈託なく動きまわっているのかという大問題にさしかかったときなのだが、テントウムシを潰して食べるとあんなにまずいものはないというのだ。これではたしかに誰もテントウムシを口に入れなくなるだろう。
 役にたたないことも書いてある。日本では「雀のお宿」といってスズメがたくさん集まってチュンチュンしているところをそう呼ぶが、先生もこの「雀のお宿」がどうしてできるのか不思議に思ってきた。とくに烏丸三条の第一勧銀本店あたりにはスズメがいつも集まっている(こういうことを全国的な生物学の本に書いて平然としているところも変である)。で、その理由をイギリスの生態学者が「あれはスズメの人口調整で、スズメはああやって集まっていると、これはいくらなんでも多すぎると気がついて、それで数を減らす気になるのだ」と発表して、先生はすばらしい考え方があるものだと感心した。しかし、このようなことはその後の調査で否定されてしまった。
 科学者の仮説だからといって役にたたないことも少なくはないという教訓である。われわれならスズメがそんなことはしっこないとすぐに思えることを、わざわざ世界中で調査するあたり、学問というものは変なものだという意味では、これは役にたつ話だった。

 それはともかく、こうしてさんざん焦らしておいて、220ページの本のやっと158ページになって、イヌは飼主に忠実なところがあるのに、ネコはわがままなのはどうしてでしょうかね、とまるで主題をほったらかしにしていたことを懴悔するふうもなく、先生はやおら結論に入るのである。
 そして、ネコというもの、父親と子ネコにはまったく情愛も親交感覚もない。母ネコと子ネコの関係も母から子への一方向の関係付けしかおこっていない。これは疑似親子関係ともいうべきもので、きっと人間の飼主とネコとの関係もこの疑似親子関係のようなものではないでしょうかと、澄ましたものなのだ。
 期待してはいけなかったのだ。先生は自分の言葉で自分に有利なことだけを話すのだ。ネコがわがままなのは先生が世話をしていないだけでなく、世話したところで自分に有利にならないことを知っていただけなのである。
 やはり先生はよくよく「利己的遺伝子」ということを研究しつくしている。

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