ダニエル・ベル
資本主義の文化的矛盾
講談社学術文庫 1976
Daniel Bell
The Cultural Contradictions of Capitalism 1976
[訳]林雄二郎

 ダニエル・ベルの最初の問題の書『イデオロギーの終焉』は「傲慢の放棄」と「市民的秩序の誕生」を謳って、一口にいえば政治における狂信主義と絶対的信念が終わったこと、あるいはそろそろ終わりなさいということを告げたものだった。
 ところが、今日の世界の政治はまったくそうはなってない。まだまだアメリカは傲慢であり、それに加担する国々は多く、ときに絶対的信念こそが地球の右と左からやってきて激突しあっている。わずかにボランティア活動やNPO・NGOによって市民的秩序が芽生えてきただけだ。
 ついでベルは1973年に『脱工業社会の到来』という衝撃的な一書を発表して、今後は最大の戦略変数として「科学技術の変化」が全面化すると予告した。そこには、財貨中心の工業社会に代わって登場するのは情報社会であろうこと、財からサービスへの転移がおこるであろうことが克明に述べられていた。
 また、このことがおこるには、次の4つの回避がなされなければいけないとも説いた。すなわち、1.熱核兵器、2.人口爆発、3.発展途上国の経済的離陸の困難、4.エントロピー、だ。
 ここまでは見事な予告といっていいだろう。ただし、ベルはこのときは文化や宗教に関心をもたなかったか、もしくはこの本からはその懸念を欠落させていた。
 そこで本書、『資本主義の文化的矛盾』なのである。

 本書も他のベルの研究思索成果と同様に、かなり早すぎた著作である。『脱工業社会の到来』を書いてからわずか3年しかたっていない。アメリカがベトナム戦争・ドルショック・オイルショックから抜け出したばかりの、まだまだぜいぜい苦境にあえいでいる時期
である。こんな時期に展望は難しい。
 けれども、ぼくは本書を読んで、ベルの一番いいところが出ていると思った。どこがいいところかはのちに指摘するとして、ベルが言いたかった結論を先に言っておくと、このままでは政治と経済と文化の三者は、絶対にあいいれない矛盾するものになっていくだろうというものだ。ベルは経済と技術を連動するものと捉えているので、政治、経済=技術、文化という3軸である。
 要約すれば、政治が「公正」(justice)を追求すること、経済=技術が「効率」(efficiency)を追求すること、そして文化が「自己実現」(self-actualization)ないしは「自己満足」(self-gratifization)を追求することのあいだには、ぬきさしならない矛盾が生じているというのだ。
 そのうえで、ベルはさまざまな矛盾についてその理由をさぐろうとしていく。

 もともとベルは、近代社会の登場によって何がおこり、それが現代社会の驀進のなかでどのように変貌していくかということに強い関心をもってきた。
 そして、おおよそ次のような判断をくだした。これも結論だけを言うことになるが、近代では「超越」(beyond)が終わって、それに代わって「限度」(limit)が求められるのではないか。
 この構図は、ローマ・クラブの『成長の限界』によって示された指針を見ても、またその後の社会の状況を見ても、地球温暖化などの環境の状況を見ても、ぴったり当たっているようである。たしかに、今日の社会ではいたるところで「限度」が要求されている。しかしながら、その限度を芸術活動や想像力にあてはめていいものかというと、どうもそうはいかない。
 資本主義の俎上に文化をのせるには、そこに踏みこんでいかなくてはならない。どう考えていくか。

 政治・経済(技術)・文化は別々のリズムで、別々の価値の目盛で、別々の国ごとに動いている。これだけでもグローバルな資本主義の進行とこれらが軌を一にしないことがはっきりするが、その動きを担当しているエンジンを見ると、もっと絶望的になる。
 政治のエンジンは社会正義と権力とが闘うところで動く。技術=経済システムは合理的機能性をエンジンにする。
 文化はといえば、これらの反対に動くエンジンをもっていて、ホモ・ファーベル(道具をつくる人間)としての活動よりも、つねにホモ・ピクトール(シンボルをつくる人間)としての活動に向かっていく。大半の生活者にとって道具はだいたい便利であればその改善は他人まかせなのである。
 文化のエンジンがこのようになっていることの理由を、ベルは文化が自分らしさをほしがっているという見方で説明する。あまりうまい説明ではないが、だいたい当たっている。が、これだけで文化が政治・経済・技術と対立している構図にはならない。そこでベルは、文化は反合理と反知性に向かうという性質をもっているのではないかと分析した。
 ここはおもしろい。たしかに知性は経済効率を求めるし、知性は知性の整合性を発揮するにあたって合理を仲間に引き入れる。
 これに対して、芸術のような文化も生活のような文化も、べつだん知性的である必要はないし、合理的である必要もない。生活文化にとっては、合理と知性は洗濯機や電子レンジのように、ちょっとだけ手に入れば、それですむものなのだ。
 と、まあ、ここまではわかったとしても、まだこれでは「奥」が何も見えてはこない。いったい文化はいつの間に政治・経済・技術と背を向けあうようになってしまったのかという説明がいる。

 ベルの、長々とはしているが、それなりに真摯な紆余曲折の叙述を省いて言うと、文化は資本主義が過剰になっていくにつれ、その資本主義を育ててきた政治・経済・技術から背を向けてしまったのである。いわば親に背いてしまったのだ。
 爛熟した資本主義社会とは、何かをつくることが話題になる社会ではなくて、何かが売れたことを話題にする社会である。たとえばぼくの本はたまには新聞の書評欄に載ることはあるが、それは話題になったのではなく、たんに書評欄に採りあげられたにすぎない。資本主義社会にとって話題になるとは、売れることなのだ。
 ところが、売れることは文化の本質とはまったく無関係ではないにしても、ほとんど連動していない。すなわち消費されるということは価格をもったモノがいくつ売れたかということであって、文化が抱えもっている内容が消費されたことではないのである。
 こうしてベルは自分の分析に恐ろしくなってくる。これは経済・技術の暴走で、政治はこのことをまったく食い止めていないと見えるからだった。そこで社会の現状の特色を並べ、先は見えないにしても、このようになってしまった根本原因に迫ろうとする。

 ベルが並べた特色は1970年代のものであるが、いまとたいして変わりはしない。
 第1に、話法が分裂している。これは現状に対して統一した見方が失われているからである。第2に、したがって経験の様式が一定しない。第3に、そのような現状を報知するメディアが話法ごと、見方ごとに多様化していく。
 そうなると第4に、需要した情報のちょっとした組み合わせのちがいだけで社会の中の相互作用がまことに複雑化する。そして第5には、そのちょっとしたちがいの一つ一つに自意識が居座る理由ができてしまい、そのため第6に役割と人間性とのあいだにものすごくギャップができて、これらを通観するには第7に、社会的流動といった怪物がそこをゆさぶっているとしか言えなくなってしまうのである。

 以上はぼくがそうとうに圧縮編集して説明したことなので、ベルの言葉がどのようになっているかは原文をあたってほしいが、それはともかく、それでどうなるかというと、「どこにも中心がなく、どこにも過去のない、けれどもどこにもアイデンティティがある現在」がいっぱい並立するということになるわけなのだ。
 ところが、このような文化的状況とはいっさいかかわりなく、世界各国が自由競争による資本主義市場を信頼して、そこにみんなで一斉に突っこんでいくのだから、またそれを促す政治しかやらないのだから、ここに政治・経済・技術・文化は絶対にあいいれない矛盾を深めていくということになるしかなくなっているのだった。

 だいたいこのへんまでで中巻の半ばにさしかかる。このあとベルはいよいよ芸術と現代社会という難題に向かって、シェーンベルクやオルテガや、ピカソやホワイトヘッドの検討に入るのだけれど、これはどちらかといえば気休めである。
 ただし、そのあとにヨーロッパ社会の現状とアメリカの欲望を抽出していく記述は参考になる。またまた結論だけを、ぼくがカッコよく編集したうえで紹介しておくが(かなりカッコよくさせてあるが)、ベルがあげた現代病は次の7つとなった。

1.解決不能の問題だけが問題になる病気
2.議会政治が行き詰まるから議会政治をするという病気
3.公共暴力を取り締まれば私的暴力がふえていくという病気
4.地域を平等化すると地域格差が大きくなる病気
5.人種間と部族間の対立が中からおこっていく病気
6.知識階級が知識から疎外されていくという病気
7.いったん受けた戦争の屈辱が忘れられなくなる病気

 ざっとこういうぐあいにベルは後半戦に入ってきて、現代社会の資本制的諸矛盾を解決するには、これらをごちゃまぜにして新たな概念のもとに組みなおせるような考え方、たとえば「パブリック・ハウスホールド」(公共家族)という考え方を導入しなければならないと言い出すのである。
 いわばベル式公共経済論なのだが、かつてここを読んでがっかりして以来、ベルがどのようにこの展望を引き出してきたか、忘れてしまった。今晩もその箇所を読んで検証する気がまったくおこらない。気がむいた諸君はそこを自分であたってもらいたい。
 ということで、後半戦の提案を除けば、本書はぼくが見るかぎりはベルの最も良心的で、最もきわどい「いいところ」が出ていると思えたのだった。
 いま、社会学には、このようなまるごと責任をとるような著作がめっぽう少なくなっている。ベル自身が言うようにとっくにイデオロギーが支配できる時代が終わっているからでもある。

参考¶ダニエル・ベルの主著は次の通り。『イデオロギーの終焉』(東京創元社)、『脱工業社会の到来』上下(ダイヤモンド社)、『二十世紀文化の散歩道』(ダイヤモンド社)。


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