ポール・レヴィンソン
デジタル・マクルーハン
NTT出版 2000
ISBN:4757100302
Paul Levinson
Digital Mcluhan 1999
[訳]服部桂

 マクルーハンが『機械の花嫁』(1951)をひっさげて登場したとき、英語圏の学者たちはこれを嘲笑し、罵倒した。その後の誤解も甚だしい。
 マクルーハンの著書は『グーテンベルクの銀河系』(1962「千夜千冊」第70夜参照)や『メディアの理解』(1964)をはじめ、だいたいがベストセラーにはなったものの、そのつど非難の嵐にも巻き込まれていた。何を言っているかわからない、論理がない、飛躍ばかりだ、例題ばかりだ、云々侃々。
 レヴィンソンはまずその誤解を解くことと、マクルーハンの思考法にきわだった特質があることから本書を書いた。そしてマクルーハンがアナロジーとメタファーをもって思考していたことを強調する。なぜそうしたのかは、レヴィンソンのあれこれの説明を読むよりステファヌ・マラルメが1886年にとっくに書いたこと、すなわち「定義することは殺すこと、暗示することは創造すること」を思い出したほうがよい。

 マクルーハンは「ホット対クール」「透過光対反射光」「聴覚的空間対視覚的空間」といった刺激的な対比を好んだ。
 そして「ラジオがホットで、テレビがクールだ」といった当時の学識にとっては愕然とする解答をいくつも用意した。たとえば、テレビにとって映画のスクリーンにあたるものは何かという問いに、何と答えればいいだろうか。おそらくは多くがブラウン管と答え、もうちょっと知識がある者なら、そこに透過光としての特色を付与したくなるにちがいない。
 ところがマクルーハンは、こう答えた。「テレビの場合は、映画のスクリーンにあたるのは視聴者である」。
 では、パソコンはどうか。パソコンにおけるスクリーンは画面だろうか。インターフェースだろうか。パソコンにおけるスクリーンはマクルーハンにとってはユーザーの意識なのである。

 こういう解答には共通する特徴がある。それはマクルーハンが、われわれの意識の焦点をなんとかコンテンツからメディア自体に移させようとしていたということだ。
 マクルーハン自身も「メディアのコンテンツなんていうものは、強盗が精神の番犬の気をそらすために携える血のしたたる肉のようなものだ」と言ってのけたことがある。
 とくに「テレビが先に登場していたら、そもそもヒトラーなぞは存在しなかったろう」は有名だ。そればかりか、実は「ユーザーがコンテンツなのだ」とさえ言い切ったのである。

 こういう考え方はあきらかにメディア決定論である。しかも、そう言ってよければ、メディア絶対主義である。
 レヴィンソンはその一刀両断に感動しながらも、このあたりからマクルーハンの解釈をやや質的に変化させようと試みる。レヴィンソンは、マクルーハンが電子メディア時代をある程度は予告していたとはいえ、今日のようなウェブ・ネットワークでつながったデジタル・コンテンツ時代まで読みきってはいないとみて、ここからはマクルーハンに代わってみずからがデジタル・マクルーハンになっていく。そして「コネクテッド・エデュケーション」の企画者と啓蒙者になっていく。

 レヴィンソンがデジタル・マクルーハンになるにあたってマクルーハンから継承した思想がある。それはマクルーハンの次の言葉によくあらわれている。
 「私がずっと追求してきた「モザイク的手続き」は、場を通った光を待つものであって、場の上に光をあてようとするものではありえない」。
 このマクルーハンの方法の魂はすばらしい。ぼくも諸手をあげて賛成する。
 なぜなら、ここには第1に、学習と手続きは一緒のことだということが明示されている。第2に、その手続きと学習には「場」が必要であることも断言されている。第3に、その「場」はドアや躙口や木戸のように通過するものであって、そこで絵を読むためのものではないことも予告されている。
 まさにそうなのである。
 このことを前提にしない学習理論もコンピュータ理論もつまらない。相手にしないほうがいい。
 そうではあるのだが、ただし問題はこの「場を通った光を待ちながら学習するという方法」をどのように実現するかなのである。そして、その「場」と「光」とは何なのかということなのだ。
 だいたい「場を通って」というときの「場」の設定が難しい。この「場」はコンピュータ・ネットの中のレイヤーなのか、通過学習をするためのテンプレートなのか、それともネットにぶらさがっている教室なのか、自然にユーザーが離合集散するラウンジなのか、それともオフラインのユーザー・コミュニティをも含むのか。

 ぼく自身はこれらの「場」の問題を「ISIS編集学校」の実験と実践を通してしだいに解決しつつあるのだが(編集学校をお知りになりたい方はこちらへ)、マクルーハンとデジタル・マクルーハンは、この問題にはまだ目をつぶったままのようである。
 けれども、ぼくも「光」のほうの決着がつかないでいる。裸のコンテンツではない、先生の声や笑顔でもない、パソコンの中にリアルビデオが入るのでもない、ましてアーカイブからの情報の引き出しでもない、けれどもまさか「意識」とは言えまい、というところまでは見当がつくが、実はそのいずれをも取り込んだもののようにも思えるため、やや逡巡している。
 いまはきっと「文楽」のようなありかたではないか、と予想をつけているのだが、さて、それをどうデジタル・マクルーハンにしていくか。

 ところで、マクルーハンは電子メディアを「肉体のない悪魔」とみなすことが多かったため、そこにはエロスよりもタナトスが醸し出されると見たけれど、レヴィンソンはデジタルメディアにはエロスではなくリビドー(性衝動)が出入りすると見る。
 まあ、当たっているだろう。けれどもちょっと面倒なのは、電子メディアに接触しつづけているユーザーのリビドーがアタマの中の何に対応しているかということである。
 このことは本書だけでは解けない。むしろ時代を戻って、ロックのリビドー、何台ものカメラによるスポーツ中継のリビドー、ファミコンのリビドー、親指ケータイ・オンデマンドリビドーといったものを見当する必要がある。
 われわれは、なぜかこの10年というもの、いやパソコンが登場してからの、インターネットが出現してからのわれわれが体験していることを、どうも検証できない病気にかかっているようだ。そろそろ症状を自己申告したほうがいいのではあるまいか。

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