トマス・ピンチョン
V.|I・II
国書刊行会 1979
ISBN:4336024464
Thomas Pynchon
V. 1963
[訳]三宅卓雄・伊藤貞基・中川ゆきこ・広瀬英・中村紘一

 いまでもトマス・ピンチョンは聞きしにまさる謎の作家ではあるが、それでもウィリアム・ギャディスやサリンジャーや若手理科系グループが覆面で書いているのだなどということは、誰も言わなくなった。
 ピンチョン家はアメリカでもそうとうに古い家系で、1650年にはウィリアム・ピンチョンが『我等の救済のありがたき代償』という神学書を書き、キリスト教の予定調和説に反しているということで禁書焚書の憂き目にあっているし、ぼくもそれを知って驚いたのだが、その一族の呪われた宿命はナサニエル・ホーソンの『七破風の家』のモデルにさえなっていた。
 そういう異様な家系の末裔であることを、トマス・ピンチョンがそうとうに意識していただろうことは『重力の虹』などを読んでも見当がつく。ピンチョンはピンチョン家から逃げられない。
 しかし、それだけなら謎の作家ということにはならない。
 人前に出ようとしない、めったに写真を公表しない、文壇にまったく関心がない、アメリカを馬鹿にしている、ほとんどエッセイを書かない、賞をほしがらない、といった"人見知り"が謎を深めただけだった。もっとも、こういうことはアンリ・ミショーなどにも見られたことだから、そんなに騒ぐほどのことではない。

 ピンチョンの経歴はとっくにわかっている。
 コーネル大学の物理工学に入って途中で海軍に入隊し、戻ってはコーネルの英文学を専攻してウラジミール・ナボコフの講義をとったりしていた。ナボコフの講義をうけたことは大きかった。ナボコフがコーネルでどんなことをしていたかは、「千夜千冊」第161夜の『ロリータ』を読まれたい。
 その影響かどうか、ピンチョンは在学中から文芸誌の編集に関与していたようで、1960年にははやくも『エントロピー』を書いた。言い忘れたが1937年のロングアイランド生まれである。このときすでにピンチョンには「熱力学的な愛」によって歴史や社会を捉える目と、管理や支配のシステムに対するに「協創」(togetherness)をもって対抗したいという目が芽生えている。
 その後、ボーイング社に就職して2年でやめ、それからはずっと執筆に専念している。作品の評判は高く、何度も文学賞にノミネートされたが、いつもこれを辞退した。そういうところがまた奇人変人扱いをされた理由になっているのだが、はたしてそういう、つまりは"変人"かどうかはわからない。

 もっとも作家がどんな性格の人物かなどということは、作品を読んだから見えるなんてことがあるはずもないのである。そういう文学論はごまんとあるが、あまり信用しないほうがいい。とともにピンチョンばかりを特別扱いにしないほうがいい。
 ちなみにごく最近のインターネットには、ピンチョンがゴジラのTシャツとジーンズ姿で、ロックバンドの「ローション」とかのコンサート会場に現れ、楽屋にまで入っていったといった、まことしやかな情報も流れた。
 こういうピンチョンなのだが、さて実際に作品を読んでみると、これはやはり異様なのである。謎の作家とおもいたくなる気持ちもややわかる。ここでは大作『V.』だけに絞ってピンチョン文学の一端を案内してみたい。かなり奇怪だ。

 『V.』には一対の物語がモデル化されている。二つの物語は原則的にはまったく関係がない。
 ひとつは「現在」の物語で、発端は1955年のクリスマス・イブから始まっている。主人公は一応は海軍除隊以降はニューヨーク近辺を放浪するベニー・プロフェインで、彼はニューヨークの地下水道に棲みついたワニを退治するアルバイトをしたり、得体のしれない人体模型を扱う人類科学研究所の警備をしながら、「全病連」というグループとつきあっている。またレイチェルという赤毛の女に惹かれながらも恋愛に恐怖を抱いている。
 もうひとつは、ハーバート・ステンシルという男が収集し、編集した「過去」の物語が進行している。ステンシルは正体がわからないV.という女性を探しまわっている。歴史的なエピソードで構成されている物語なのである。こっちには1898年から1943年までの「過去」の時間が流れる。
 ステンシルがV.を探しはじめたのは、イギリスの外務省に勤めていた父親のシドニー・ステンシルの日記にV.のことが書いてあったからで、V.の資料を探して世界中を転々とする。
 物語の二重設定を通して、ピンチョンはことあるごとにプロフェインを「街路」(street)のメタファーとして、ステンシルを「温室」(hothouse)として象徴化し、記号化している。が、物語の二重設定をふくめて、こういうことは現代文学ではよくあることなので、たいしたことはない。

 しかし、このような設定の上にのった情報と知識の量が尋常じゃない。ものすごい。それゆえ二つの同時進行物語を読んでいくにしたがって、読者は自分もしだいに情報の異常な関連に巻まれていることを知らされる。
 街路男プロフェインの物語では、彼が「全病連」に染まるにつれて次々に出現してくる男と女の喧しさに目が眩んでくる。
 「全病連」はどうやらパーティばかり開いている団体らしいのだが、睡眠スイッチでテレビとつながるミクソリディアンという男、緊張症的表現主義と診断されたらしいアーティスト、形成外科で鼻を整形してもらおうとしているユダヤ人の娘エスター、黒人少女ルビーに変装したパオラに惚れるジャズミュージャンのスフィアという男、「英雄の愛」ばかりを主張する大衆作家、それにピンチョンの他の作品にも出てくるビッグ・ボーダインなどが出入りしていて、何が何だかわからない。
 そういう頭がおかしくなるような連中と、プロフェインがしっかり出会っていくのである。
 が、これでうんざりはしていられない。もうひとつの物語のほうは、もっと秩序が奪われている。

 こちらのほうはステンシルが集めた情報をステンシルが編集したエピソード群であるのだが、べつだん有能な研究者が収集した情報ではないのだから、V.に関する奇妙な話が散らばっているだけなのだ。
 1898年にカイロでのファショダ事件を目前して英国スパイと対立していた独国スパイのボンゴ=シャフツベリーの話、父が18歳のヴィクトリア・レンと出会った話、その父とヴィクトリアを巻きこんだ1899年のフィケンツェノ中のヴェネズエラ領事館前でおこった暴動の話、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』を盗もうとするマンティッサという男の話、ヴェイシューという秘境にとりつかれた探検家ゴドルフィンの話、南西アフリカの植民地化に対する反乱から脱出したヴェラ・メロビングという女の話、第二次世界大戦下のマルタ島の首都ヴァレッタが襲撃されたときの話が、これまた脈絡なく出てくる。
 ここに共通するのは「V.」というイニシャル群だけで、あとはともかくも情報過多なのだ。それぞれの話の断片からしてすでに過剰な情報エントロピーなのだ。

 ところが、これらの物語がどこかで流れこみあい、複雑に絡みあう。これが困惑するほど魅力的で、かつ目をそむけたくなるほどの狂気の沙汰なのである。
 その絡みぐあいを説明するのは、そんなことをしたところで理解が進むとはおもえないので空しいような気もするけれど、あえて案内を続けると、たとえば、ステンシルは集めた情報のうちにヴェロニカというネズミがいて、このネズミをフェアリングという神父がなんと"改宗"させようとしていることに興味をもつのだが、その調査のためにニューヨークを訪れて地下水道にまで入る。
 ここで二つの物語は「過去」と「現在」が交差して、ステンシルがワニと勘違いされてワニ狩り隊の銃で撃たれるということになる。こういうぐあいなのだ。
 そこで、なんだこの気違いじみた話はとおもっていると、ステンシルはV.のものとおもわれる義歯を盗むために、プロフェインと共同調査をしたりするのである。
 しかしよくよく読むと、ステンシルがあれこれ集めたV.に関する情報というのは、このステンシルとプロフェインの共同調査の過程で入手されたものが大半だったことを知らされる。なるほどマルタ島襲撃の情報は、かの「黒人少女ルビーに変装したパオラ」の父親の手記に綴られていた情報だったということもわかってくる。けれども仮にそんなことがわかったとして、いったいこの物語にとって何になるのかは、まったく理由の説明がつかない。
 このあたり、いったいピンチョンはこんな物語を交錯させておいて何をする気なのだろうかと、読者は不安に駆られるばかりなのである。

 さらに物語が終盤にさしかかると、もっと唐突なことがおこる。その組み合わせになんらの必然性もないだろうプロフェイン、ステンシル、パオラの三人が揃ってマルタ島を訪れるのだ。
 そこであいかわらずあれこれ奇妙な出来事を体験するのは予想通りではあるものの、そのうちプロフェインが気晴らしに知りあったアメリカ人の娘と遊んでいるうちに、なぜか海に向かって飛びこんで行ったとたん、首都ヴァレッタ中の電気という電気が停電し、その場面の途中でこの小説中の「現在」の物語に終止符が打たれてしまうのである。
 これはなんとも意外である。どうせこれだけ混乱してきたのだから、物語がどうなろうと平気だとはおもっていても、この終止符は唐突なのだ。

 ともかくも、それでとうとうエピローグになるのだが、それがまた1919年のマルタ島ヴァレッタでの六月騒動の顛末なのである。これは「過去」の物語の終焉にあたる。
 そうか、そうか、V.というのはヴァレッタのV.に集約されるのかとなんとか気をとりなおしていると、案の定、そこにステンシル
の父シドニーがかつてスパイ活動か、二重スパイ活動をしていたことがわかってくる。
 読者としては、ここでやっと僅かな"おこぼれ"のような整合性に逢着したような気分なのだが、ピンチョンはこんなことでエピローグを括(くく)らない。最後の最後になってパオラの父やフェアリング神父を出してくる。さらには、これこそは決定的なV.とおぼしいヴェロニカ・マンガニーズという女性が出現して、シドニーはこのV.をこそ問題にしていたのかと得心をさせる。
 が、シドニーはマルタ島の近海で奇怪な竜巻に巻こまれて、あえなく絶命する。それで全巻の終わりなのである。

 まったくもってとんでもない小説である。ぼく自身、このように案内をしていても、なんとも落ち着きが悪かった。
 いろいろ暗示的に理解できることはある。
 まずすべての人物がVのイニシャルで動いていたということは見え見えである。おそらくV.とは女性性である。そのV.は創造性と破壊性の両面をもっていて、つねに「死の王国」あるいは「人工世界」のイメージとつながっている。V.の身体性は義眼や義足やサファイア製の臍などに取って代えられていくからだ。
 物語の進行はあきらかにエントロピー増大の法則にしたがっている。エントロピー増大とは情報が過多になり、本来の秩序が失われて混乱が拡張していくことで、生命的なるものの喪失をもたらしていく
 ピンチョンはこれらの熱力学的な思想を、この作品が書かれた時期を考えればよくわかるように、ウィナーのサイバネティックスと結びつけた。サイバネティックスは人間を含めた生物の動向をフィードバック・システムとしての制御系に搦めとるマンマシン型の思考法をいう。
 ピンチョンがそうしたかっただろうことは、のちの傑作短編『エントロピー』でもピート・ミリガンという男をつかって試みられたことなので、まずまちがいがない。この作品については、ぼくもかつて『情報と文化』(NTT出版)で解説したことがあるので、それを見られたい。

 しかし、『V.』がそのような特徴をもっているとしても、ピンチョンの作品を総じてどのような文学史に位置づけるかという点に関しては、いまだにその評価が定まらない。
 これまでもシステム小説、サイバネティック小説、再補給文学、複雑系の文学、メタフィクション、メガフィクション、マキシマリズム、ガイア小説など、まことに多様な冠がかぶせられてきたのだが、どうも定まらない。
 まあ、どのように呼ぶかはどうでもよろしい。文学史が評価を定められない文学作品など、セリーヌから稲垣足穂まで、いくらでもあるからだ。では、ピンチョンはぼくにとってはどういうものなのかというと、ぼくがおもうには、ピンチョンは「情報」が出現してくる現場を書きたかったのだろうということである。

 これは考えるほどやさしいことではない。
 そもそも情報というものの本体がいまなお特定できないのだし、その情報はたえず事態の見方に従って相転移的に創発してくることが多いのだから、その現場を描くことはそうとうに面倒になる。
 が、ピンチョンはそれを引き受けた。『V.』とは、そういう誰も引き受けなかった試み、アンリ・ポアンカレやアラン・チューリングやディヴィッド・マーならば当然引き受けた科学思考の試みを、ひたすら文学で引き受けた"実験"なのである。
 ここには、ふつうの物語がもっている「時間の矢」とともに、それとは別の「情報の矢」の進行がある。が、「情報の矢」は「時間の矢」のようにリニアではない。ノンリニアである。しかも主語がない。どんな情報も述語的なのだ。それゆえ、「情報の矢」を描くとしたら、その情報を受け取った場面で描くことになる。まず、これだけでややこしい。
 ところがここに、もうひとつ「エントロピーの矢」というものを加えた。エントロピーは情報の乱れぐあいの関数である。さまざまな情報が受け取られていく前に、どの程度にわたって乱れたのか、つまりは熱力学の愛に向かったのかを書かなければならない。ピンチョンはその"鉄則"に従ったのである。
 きっとそういうことなのだ。

 だからピンチョンを、古典力学的な時空間のなかで矛盾や不条理を"創作"してきたような文学にばかり介入してきた連中が、どんな批評をしたところで、そもそもメトリックが合わないのは当然である。
 トマス・ピンチョン以降、われわれは「情報創発文学」というものがありうることを知ったというべきだった。

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