松谷健二
東ゴート興亡史
白水社 1994
ISBN:4560028761

 これを書いている今夜も、1カ月前から開始されたアメリカのアフガニスタン空爆が容赦なく続いている。このぶんではラマダーンに入っても執拗な空爆はやまないだろうし、アフガン難民のパキスタン流出もさらに波状化していくのだろう。
 アフガニスタンはどうなってしまうのか
 かつてはソ連の暴力的な進攻を、8年にわたってムジャヒディンたちが耐えつづけたのに。
 むろんぼくは、こうした異様な軍事攻撃のニュースをテレビの画面で遠くから見ているだけのことであるが、そんなことをしていると、数年後のアフガニスタンがどんな状態になっているのかを思いめぐらしつつも、歴史の非情はたえずこうして国土を荒らし、不幸な民族を分断させ、新たな支配者や新たな分割者によってその姿を不断に作り替えていくのかという"定め"めいたものが、あらためて押し寄せてきて、それがあたかも物部氏や北条氏の宿命のように思えてくるのであった。

 どうやら著者の松谷さんも、民族の宿命や国家の運命というものに深い関心があるようで、すでに発表された『カルタゴ興亡史』や『ヴァンダル興亡史』でも、歴史のなかで何がおこって、何がおこらなかったかということを直截に書いている。
 本書は建国後たった数十年で滅ぼされてしまった東ゴート王国の歴史を扱った。いわゆるゲルマン民族の大移動のなかで蜃気楼のように立ち現れて、そして泡沫のように消えていった民族王国の、はかない歴史である。
 あのころ、東ゴート王国だけが勃興し、滅亡したわけではなかった。スエヴィ王国も西ゴート王国もゲビデ王国もランゴバルド王国もなくなってしまったし、サクソン族やノルマン族やバルト諸族は王国も築けず、さまよっていた。
 うまく国土をせしめて居直った国もあった。今日のフランスの原型をつくったフランク族は、ライン左岸とローマの属州ガリアに侵入して、そこにいた多数のケルト人やローマ植民者にのしかかり、少数者が支配するフランク王国を築いてしまった。
 東ローマ帝国はこのフランクの纂奪を撃破することもできたはずだが、そうはしなかった。フランクの拠点のパリに大軍を進めるには、アルプスを越えなくてはならなかったからである。

 こんなことは現代の戦争ではまったく関係のないことかと、ぼくは思っていた。
 アルプス越えの困難など、ナポレオンの戦争でとっくに終わっていたかと思っていた。少なくとも今日のミサイル時代では。
 けれどもアフガニスタンの山岳に散在遊走するタリバンに手こずるアメリカを見ていると、そうか、地勢と民族との深い関係は、いまなお世界一の軍事力をも苦しめるのかと、そこに気がついた。

 本書の内容をいちいち説明することはないだろうが、少しかいつまんでおくのは、なんだか今日のアメリカの軍事力やタリバンの抵抗が抱える無謀を諌めるようで、どこか示唆的におもわれる。
 紀元前1世紀、スカンディナヴィアと北部ヨーロッパの気候が冷えたのである。それ以前にそれらの地に住んでいたゲルマン人たちが、温暖を求めて動き出す。
 武装難民の群である。
 その武装難民の一族にゴート人がいた。
 かれらはバルト海を渡ることを決断し、いまはポーランドに入るダンチヒ(グダニスク)に上陸した。ここはかつてのゲルマニアの地である。このときそこにいたヴァンダル族は蹴散らされて、のちのことになるけれど、なんとアフリカにまで渡って王国を築き、そして短命な宿命を終えた。
 ゴート人の武装難民のほうは南東に進み、ドニエプルの大河に着くとキエフを都として定着して、南ロシアを版図とする王国をつくる。この前後でゴートは東ゴートと西ゴートに分かれ、それぞれが勢力を伸ばした。東ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝は慌ててゴートと協定を結び、手なづけようとした。ところが、そこに大事件がおこる。
 遊牧民フン族がおそらくは北東の大草原の寒冷化のためであろう大挙して南下し、ゴート人を追い散らしたのだ。フン同盟の族長はアッティラ。北東同盟軍ともいうべきである。アッティラの獰猛な指導のもと、フン同盟軍はヨーロッパを荒らしまわった。
 やむなく東ゴートも南下する。西ゴートがアフリカまで行ったのにくらべれば持ちこたえたほうだが、それはテオドリックの軍事力によっていた。やがてアッティラによって確立しつつあったフン王国が衰退すると、東ゴートが復活してくる。

 こうしてテオドリックの時代がくるのだが、それは戦乱と周辺有事だけが打ち続く時代であった。
 この事情は"外国"にとっても同じことで、隣りあう西ローマと東ローマが東ゴートの挙動を警戒し、経済封鎖をしたり貢物交易を圧しつけたり、辺境警護の"防人"としての地位を与えて懐柔に出たりした。アメリカがアフガンのムジャヒディンに対ソ連の義勇軍としての地位を承認したのと似ている。
 しかしテオドリックは撹乱されなかった。イタリアに複合軍を進め、ゴート人の安住の地づくりに乗り出していく。傭兵を集めたイタリア王オドアケルと戦い、これを殺し、西ローマを圧迫して、ついにイタリア全土を支配下に収めた。
 これが東ゴート王国である。
 けれどもテオドリックの王国は安定しなかった。東ローマ皇帝アナスタシウスはなかなか屈しなかったし(アフガニスタンに対するパキスタンのように)、すでに勃興しつつあったフランクの軍事力とも対抗しなければならなかった(ちょうどアフガニスタンに対するNATO軍にも対応しなければならないように)。
 結局、東ゴート王国は東ローマ帝国(ビザンティン)によって滅ぼされることになる。497年にテオドリックが東ローマ皇帝によってイタリア王として認められてからわずか50年、ひとつの王国は壊滅した。思えば、北海から地中海におよんだ巨大旅団体の死のようなものだった。

 いったい民族国家というものは何なのだろう。エスニック・ステートはどこでネーション・ステートになるのだろうか。民族が国をつくろうとするのはあたりまえのことであるはずなのに、なぜ滅ぶのか。
 東ゴートの短命な盛衰を見ていると、こんな小さな民族の動向でも、それが過熱したとたんに周辺のありとあらゆる民族や王国との摩擦がおこることが、よくわかる。「強さ」というものが周辺に極端な不安をもたらし、そこに相対的な安定をさぐる試みが、まさに現代政治とまったく同様におこり、しかしそのいくつかが首尾よく進まないと、それらの相対しあう民族や王国は、たちまちにして戦乱に巻こまれることになる。そしていつしか滅亡がくる。
 これは宿命というものなのだろうか。宿命だとしたら、それは民族の宿命なのか、それとも歴史というものの"掟"なのか。

 しかし、民族の王国が滅亡しても、消滅しないものもある。ゴート人の生き方や在り方というものは、民族国家の消滅によってなくなるわけではなかった。
 東ゴート王国の出来事でいうならば、ボエティウスの『哲学の慰め』もカッシオドルスの文治政策も、ゴート語訳の聖書も残った。カッシオドルスがいなければ、ヨーロッパはベネディクトゥスに始まる修道院文化をつくれなかっただろうし、あの写本室スクリプトリウムからヴィバリウムを生むこともなかったのである。
 仮にそういう直接の影響が伝わらなかったとしても、時代をおいて、ゴート人の在り方は何度も蘇ったともいえる。それが中世ヨーロッパを覆った「ゴシック様式」というものだ。ゴシックとは「ゴート人らしさ」という意味である。
 ゴートは死してゴシックを残した。けれども、王国が滅び、民族が四散して、そのモード(様式)とプラウジビリティ(らしさ)だけが蘇りつづけるというのは、なんとも無常を感じることである。

コメントは受け付けていません。