外山滋比古
省略の文学
中公文庫 1976・1979
ISBN:4122006333

 そこに句点や読点が落ちる場面を変えてみると、句読点は魔術になる。「いやよして」は「いや、よして」にも「いやよ、して」にもなる。「よして」の否定文にも「して」の肯定文にも代わるわけである。
 ぼくはかつて良寛をめぐる口述書物に『外は、良寛。』(芸術新聞社)という前代未聞の標題をつくったが、その句読点術はいまではついにJポップの「モーニング娘。」まで進んでしまった
 逆に、句読点をあえてつかわない場面もある。それが短歌や俳句である。詩はあんがい句読点を嫌わない。けっこう多い。短歌や俳句にも句読点が登場することがないわけではないが、短すぎてあまり効果があるとはいえない。

 外山滋比古はその句読点をつかわない俳句に、昔から注目していた。句読点がないぶん切字を句読の調子にしたことに注目したのである。
 句読点も切字も、言葉の間のようなものである。そこには一瞬の沈黙がある。それによって言葉がないところに、もうひとつの表現が生まれる。
 それだけではない。俳句の終わり方に切字がつかわれれば、文中ではないのに、新たな効果が生まれる。「秋深しとなりはなにをする人ぞ」の「ぞ」に始まるものもある。
 ギリシア以来のヨーロッパの修辞学では、これをアポジオペーシスといって、頓挫あるいは頓絶ととらえた。尻切れとんぼなのである。しかし俳句の切字はそこでまだあきらめてはいない。

 外山滋比古の著作と仕事については、みすず書房の『エディターシップ』という書名にひっかかってこのかた、ずっと気になっていた。外山自身が雑誌『英語青年』の編集者であったことも、そのとき知った。
 けれどもそのエディターシップ論は、すでにぼくが感じはじめていた編集的世界像とはいささか別のものだったと見えたので、そこからわざわざ外山に入る気にはならなかった。それが外山の日本語へのこだわりを少しずつ知るようになって、またぽつぽつと読みはじめた。

 日本語は膠着語である。
 とくに仮名をつかいはじめて膠着性がますます強まった。その日本語をどうつかうか。これは日本語をつかう者にとっては最も愉快で最も冒険を誘うものになる。
 たとえばギリシア語やラテン語系の言葉は屈折語であり、中国語は孤立語である。孤立語は一字一字の文字が独立して並んでいる。だから断切的になる。そこで「新人類進歩研究会」は「新・人類進歩研究会」か「新人類・進歩研究会」か「新・人類進歩・研究会」なのかを憶測しなければならない。
 その一種の心理負担ともいうべきが、かえって孤立語の表現をおもしろくさせる。漢詩がそうであるように、韻や脚韻も独自に発達する。絶句という形式もこのような性質から発達してきた。
 日本語はそうした断切性をもっていないぶん、助動詞や擬態語でいろいろな補いをする。「そこを何とかスッキリさせてくれないかなあ」というふうになる。そこへ割って入ったのが切字という断絶力で、外山はそのような意外な使い勝手をつくった日本語というものの総体に注目していた。

 外山には「修辞的残像」という見方がある。同名の本も書いている。
 一言でいえば、俳句はその修辞的残像を最もよくいかした表現世界である。とくに切字はそれをつかうことで空間を限り、時間を飛ばし、そこにちょっとした余剰の空間や余情の時間をつくる。
 これはおもしろい。なぜそんなふうになるのか、いろいろ考えてみたくなる。外山は長いあいだ、そのおもしろさを考えてきた。芭蕉の「病雁の夜寒に落て旅寝かな」が、いったい雁が旅寝をしているのか、旅人が旅寝をしているのか、「かな」の切字でその二つのイメージがあえて重なっていくのはなぜかというようなことを、考えてきた。
 ここからは、日本語の言葉の本質には、そもそも「不決定性」というようなものがあったのではないかという推理や、日本語はもともと「とりあわせ」を重視してきたのではないかという推理がはたらく余地がある。それが俳句だけではなく、日本語のいわゆる曖昧表現に修辞的残像をつくってきた要因になっているふしがある。外山は必ずしもそこを強く攻めこんではいないものの、ぼくはここからの推理が好きだった。
 ぼくが外山をぽつりぽつりと読んできたのは、この推理を勝手にたのしむためだったかもしれない。そういう読み方で本が読めるのは、読書の快楽のひとつであり、そういう読書を許容するような書き方ができるというのは、著者の並々ならぬ手腕なのである。

 本書を読んでポアンティスムに言及しているのが、記憶にのこっている。ポアンティスムというのは点描画法のことで、スーラーがシュヴルュウルの色彩理論をヒントに工夫した。
 このポアンティスムが俳句にもあるのではないかというのだ。俳句は「線」や「面」ではなく、巧みに「点」を隣りあわせているのではないかというのだ。言葉の点描画法が修辞的残像をつくっているというわけである。
 たしかにそういうところはある。ただ、俳句は絵画のように鑑賞者が距離をおいて見るものとはいえない。むしろリズムのほうで距離をとっている。だから、俳句はリズム距離をもったポアンティスムなのだろうと、これはそのころ勝手にぼくが推理をたのしんだことだった。

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