ピーター・W・アトキンス
エントロピーと秩序
日経サイエンス社 1992
ISBN:4532520142
Peter William Atkins
The Second Low 1984
[訳]米沢富美子・森弘之

 数ある科学成果のなかでも「熱力学第2法則ほど、人間の精神の解放に貢献したものはない」とよく言われる。
 人間精神の解放とは何ぞやというところだが、たしかに蒸気機関を通して第2法則が見えてきて以来、この法則がもたらした見通しはまことに広範囲にわたった。第2法則は極大の宇宙にも極小の粒子にも深くかかわり、かつすべての生物の生と死にも根本においてかかわっている。

 こんなに重大な法則はめったにない。それにもかかわらず、これほどその解釈が難しく、また多様な真理の認識をもたらす法則も少ない。
 著者はオックスフォード大学の物理化学の教授で、いまは量子論による物質像の研究をする。62歳になった。難解な議論をまことに説得力に富んだ展開で、しかもカオスや散逸構造の議論までをナビゲートしている。数式をつかわないで熱とエントロピーの"深遠"なふるまいのすべてを、編集的というより編集工学寄りに解読した書物としては、いまのところ右に出るものはないようにおもう。米沢さんと森さんの翻訳もかなりうまい。
 そこでぼくも、アトキンスほどではないが、ちょっと捻った解説をしておく。

 熱力学というものはサディ・カルノーが蒸気機関をヒントに想定したカルノー・サイクルを前提とした知的理想機関の構想から生まれ、ジュールとケルヴィン卿とクラウジウスの3人がそれぞれに基礎を準備し、その総体を異能者ルードヴィッヒ・ボルツマンが引き受けて第2法則を発見し、全体の思想レベルを一挙に飛躍させたものである。
 ボルツマンについてはいずれ別に書いてみたい"とっておきの科学者"なので、ここではふれないが、ぼくが最も圧倒されている科学者の一人である。
 その熱力学にはこれまで4つの法則が発見されている。ごく絞っていうと、次のようになる。

 第0法則は「物質の温度が定義できる」というもので、これは前提にすぎない。前提にはすぎないが、これで物体間の平衡関係が何の気兼ねなく記述できるようになった。
 第1法則が、ケルヴィンやクラウジウスがあきらかにした「エネルギーは保存される」という普遍性が高い法則である。ここには宇宙のエネルギーは一定であるという思想が含まれる。熱力学的にいえば、熱は仕事に変換できるということだ。
 第2法則はボルツマンの天才が如何なく発揮されたもので、アトキンスは「自然には根本的な非対称がある」というふうに表現した。熱と仕事のあいだには非対称性があるということで、この見方こそがエントロピーという見方を生み、第2法則が「エントロピー増大の法則」という異名をとることにもなった。熱は仕事に変換できるが、完全にそのことがおこるのは絶対0度のときだけだという意味にもなる。
 第3法則は他の3つにくらべると法則とはいいにくいが、「極低温の物質の性質が記述できる」というもので、何度ステップを尽くしても物質は絶対温度はけっして絶対0度にはならないことを証している。
 なかで、なんといっても第2法則が語るところの内容がずば抜けている。本書も第2法則をめぐって展開される。

 第2法則は次のように定義を順に"いいかえ"てみると、その広大な内容が少しは見えてくる。

(1)「熱を完全に仕事に変換するのは不可能である」。
 熱源から熱を吸収して、それをすべて仕事に変換するだけで、あとは何の変化ももたらさないというような過程はおこりえない。いいかえれば、仕事と熱は、双方ともエネルギーを移動させるしかたの様式だという意味では等価だが、お互いに入れかわるときの入れ変わり方は等価ではない。

(2)「自然な過程には宇宙のエントロピーの増加が伴う」。
 これは、系を熱するとエントロピーが増加するが、仕事をしてもエントロピーは変わらないとも書き換えられる。つまり、宇宙のエントロピーは仕事には活用しにくいものだということである。エネルギーが分散するときには、エントロピーは増加する傾向にあるということだ。

(3)「宇宙はより高い確率の状態に移っている」。
 このことが意味している内容は深遠だが、簡単にいえば、「自然の変化がおこるたびに、世界全体のエントロピーは増えている。そしてその方向が一番の安定なのだろう」ということだろう。これを「宇宙や自然界には、世界全体のエントロピーが増大するという非対称性がひそんでいる」というふうに解釈したい。

(4)「熱の一部が仕事に変換されるとき、カオスが乱雑状態の中から一様な運動を引き出す」。
 ここからはエントロピーとカオスが入れ替わる。秩序だった生成物、すなわちエントロピーの低い生成物が、あまり秩序だっていない(エントロピーの高い)反応物質からあらわれてくることがありうるということである。ただしそのためには、系の周辺で系の内部のエントロピーの減少を補う以上のカオスが生成される必要がある。

(5)「熱を完全に仕事に変換しようとすると、そこに構造があらわれてくる」。
 有名なプリゴジンの散逸構造がどのように出現するかということである。ここでは、「エントロピーがより速くつくられるようになると、構造がないところに構造ができる」というふうにいいかえたい。この構造のひとつが生命なのである。

 と、まあ本書の紹介をかねて捻った言い方をしてみたが、第2法則のもつ意味をたった5ステップの「いいかえ」で、宇宙の本質や生命の誕生まで届かせようというのは、どだい無理だったかもしれない。
 しかし、第2法則がもっている意味は、急げばそういうことなのだ。そして、ついつい宇宙から生命までを、星の誕生から珈琲にミルクが交じるまでを、一気に駆け抜けたくなるものなのだ。

 本書はそのことをいくつものモデル、とくにサイクルモデルやエンジンモデルやケミカルモデルを駆使して、実に巧みにナビゲートした。熱力学やエントロピーを解説した本はいくらでもあるが、本書のように、理知的で、模式性に富んだものは少なかった。
 そのうえで、本書は科学思想的にも示唆に富む。ときどき著者が言い放つ言いまわしが得がたかったのだ。
 たとえばぼくは、「鉄を燃やす化学反応」のところで、次のような記述に出会ってギョッとした。そこにはこんなふうに書いてあった。「呼吸は血液中の鉄原子が錆びることからはじまる」!
 すでにおわかりのことだとはおもうけれど、鉄が錆びたり、血液中のヘモグロビンに変化があるということは、宇宙のエントロピーと大いに関係することなのである。

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