アレクサンドル・プーシキン
スペ-ドの女王 ベールキン物語
岩波文庫 1967
ISBN:4003260422
Aleksander Sergejevich Pushikin
The Qeen of Spades 1834
[訳]神西清

 それまで、こんな怖い話を読んだことはなかった。それまでというのは16歳のころまでということだ。
 ともかく最後の一行を読んで身が凍った。読みながら、ぞっとするドンデン返しがおこるような気がした。だいたいペテルブルクの夜にトランプをする話なんて怪しい。そのトランプはファラオンという賭博性に富んだもので、客は好きなカードを1枚選んで伏せておく。親は2枚のカードを配り、左のカードが客のカードの数と一致すれば客の勝ち、右のカードと一致すれば親が勝つ。
 そういうものだが、そのトランプに勝つために多くの者が身を焦がしている。そこへファラオンに神秘的に勝ったという老婆が出てきて、その老婆を殺してしまう青年が登場するのだから、これは物語の最後に何がおこってもおかしくはない。案の定、最後の最後になって復讐がおこる。それがスペードの女王によるものだなんて、いまでも思い出しても、怖い。

 ゲルマンはそのファラオンに関心をもった若い工兵士官で、ある80歳の伯爵夫人がかつてヴェルサイユ宮殿でオルレアン公とファラオンをやり、3枚たてつづけに勝ったという話を聞いた。
 伯爵夫人はその秘策を、魔術や錬金術に耽るサン・ジェルマン伯爵に授けられたらしい。その話を聞いてからというもの、ゲルマンは寝ても醒めても老婆がどのようにファラオンに勝ったのかということで頭がいっぱいになる。
 ゲルマンは伯爵夫人に養女がいることを知り、養女に近づくことにする。あれこれ付け文をして、いよいよ伯爵夫人の家の養女の部屋で逢い引きをすることになり、ゲルマンはその夜に屋敷に忍びこみ、伯爵夫人の寝室をめざす。
 ゲルマンは夫人の寝室に入りこむや、「どうかびっくりなさらないで。あなたは3枚のカードをたてつづけに当てることができるとうかがっております」と言い、その秘策を教えてほしいと迫る。老婆は突然の闖入者に驚愕するばかりで、「そんなことは噂話です」と言ったきり、何も答えない。業を煮やしたゲルマンは、「このくそはばあ、いやでも白状させてやる」と、ピストルを取り出した。老婆はピストルに片手をあげ身を反り返し、そのまま動かなくなった。死んでいた。

 ゲルマンは死んだ老婆の祟りを恐れて葬儀に出た。たくさんの参列者をかきわけ柩の前に出ると、遺骸はレースの頭巾をかぶり白繻子の衣を纏っている。
 ゲルマンがおそるおそるその顔を覗きこんだ瞬間、死人がふと目を細めて嘲りの一瞥をくれたように見えた。ゲルマンは這々の体で逃げ帰り、しこたま酒を飲んで布団をがぶって寝てしまった。やっと目をさましたときは夜が更けていて、月の光が部屋に射しこんでいた。そのとき扉が開いて白装束の老婆が入ってきた。
 腰を抜かしているゲルマンに、老婆は「3、7、1、この順に張れば勝てます。ただし一晩に張るのは1枚だけ。勝ったうえは生涯二度とカードを手にしてはいけません」「そして、もうひとつ、養女のリザヴェータを嫁にもらってくれるなら、私を殺した罪は許します」と言って、去っていく。このあたりロシア・ゴシックの父プーシキンの独壇場である。

 ゲルマンはそれからというもの、心の中で「3、7、1」の数字を繰り返す。そこへ金持ち相手にファラオンで儲けている胴元の男がモスクワからやってきた。
 さっそくゲルマンは出掛けて、最初の夜に「3」を張って大金を手にした。次の晩、また賭場に出掛けたゲルマンはもっと大きな賭金をおいて、「7」を手札に選んだ。親が配ったカードは「ジャック」が右に、「7」が左に出た。ゲルマンはしこたま儲けた。いよいよ三晩目、ゲルマンはついにすべての札束をそこに置き、最後の決戦に挑んだ。ここまでは勝てるはずだった。
 親がカードを配った。右に「クイーン」、左に「1」である。ゲルマンは勝ち誇って「1の勝ちだ」と叫んだ。親がゆっくり笑って静かに言った、「いいえ、あなたの負けです」。ゲルマンは驚いて自分の手札を見ると、そこには「スペードの女王」があった。張ったカードはたしかに「1」であるはずなのに、信じがたいことがおこったのだ。
 その瞬間、ゲルマンの手の中のスペードの女王が目を細めてニヤリと笑ったような気がした。恐怖に戦いてその女王を見ると、あの老婆に生き写しであった!

 『スペードの女王』を読んでから、ぼくは二つの方向に引き裂かれて本を選びはじめた。
 ひとつは、恐いもの見たさにミステリアスな恐怖小説を探しては読むようになったことである。さいわいこの手のものはふんだんに用意されていた。ただし、まだディーン・クーンツやスティーブン・キングのモダンホラーは登場していなかったので、ゴシックロマンから恐怖ロマンをへて、最後は怪奇小説のほうへ進んでいった。江戸川乱歩がこうした流れのすばらしい水先案内人であることも、このとき知った。そのあとはル・グインの『闇の左手』あたりから、SFの新奇性のほうへ雪崩こんでいった。
 もうひとつは、プーシキンその人に多大の敬意を感じてロシア文学を読むようになったことである。すでに第113夜の、ゴーゴリ『外套』のところで少し書いたことでもある。さらに詳しいことはいずれドストエフスキーか、レオーノフのところで申し上げることにする。いまは、スペードの女王がまたニヤリと笑うのではないかとおもうと、そのことが怖くてこの話から離れたいばかりだ。

 ところで、怖い話はこれくらいにして、一言だけプーシキンその人にふれておく。
 プーシキンはロシアのシェイクスピアであって、ゲーテである。ブレイクであって、バイロンである。詩人であって、物語作家であり、かつロシア近代語の確立者でもあった。
 それだけでなく、アフリカの血とフランスの近代性とを二つながらもっていた。プーシキンの母がピョートル大帝に寵愛されたエチオピア人ハンニバル将軍の孫娘であったし、フランスの古典に親しんで、8歳でフランス語の芝居を試作した。おおよそ見当もつこうが、ヴォルテールに傾倒した。
 その生い立ちはほぼナポレオン時代にあたっている。ということはナポレオンを敗走させたロシアに、新しい風が、さしずめ"西欧自由民権運動"とでも名付けたい風が吹きはじめていた時代ということで、学生時代のプーシキンはその新風を体いっぱいに吸いこんだ。しかし、吸いこんだ風はそれだけではない。革命への期待を詩で表明しすぎて南ロシアに追放されたことがあったのだが、そこでカフカスの山、黒海の波、古代ギリシアの記憶と出会った。
 これらが混沌と交じり、昇華して、『エウゲニー・オネーギン』になり、シェイクスピアのロシア的再来ともいうべき『ボリス・ゴドゥノフ』になった。

 1825年、アレクサンドル1世が急死すると、首都ペテルブルクではデカプリストが蜂起し、そして敗北していった。首謀者たちにはプーシキンの友人たちがまじっていた。
 プーシキンは助命嘆願運動をするが、大半は絞首刑に、残りは流刑される。新皇帝ニコライ1世はプーシキンに引見し、詩の検閲を条件に謹慎を解く。
 ここからがプーシキンの苦悩と研鑽である。研鑽の結果は『ベールキン物語』や『スペードの女王』などに結晶化されるものの、社会的な仕事や外面では苦悩した。それでもなんとか美貌のナターリヤと結婚をするのだが、うまくいかない。結局、ナターリヤを追いまわしていた若い近衛士官ダンテスと決闘し、致命傷を負い、2日後に死んだ。
 わずか38歳の生涯である。はたしてナターリヤがスペードの女王だったのだろうか。

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