アンドルー・ラング
書斎
白水社 1982
ISBN:4560045941
Andrew Lang
The Library 1881
[訳]生田耕作

 広く書籍にこだわって何かを考える知の学をビブリオグラフィという。書籍学と訳されることが多いが、そのなかに書誌学もふくまれる。そういうとなんだか堅くなるが、実は愛書学であって漁書学なのである。
 愛書家はビブリオマニアという。これは愛書狂と訳されることが多いけれど、たとえば「書痴」とか「書得派」とか「書盗者たち」といったほうがふさわしい。イギリスのホルブルック・ジャクソンはバートン『憂鬱の解剖』の向こうをはって、『ビブリオマニアの解剖』(1930)という大部の本を著し、こうした愛書狂の症状を"書籍医師"さながらに詳細に記述してみせたものだった。
 してみればビブリオグラフィも「知の医療」の対象として、「狂書学」とか「書痴学」としたほうがいいようだ。むろんこれは漱石流の諧謔謙遜であるけれど。

 こうした歴史がいったいどこから発祥したかといえば、古代ギリシアのアリストテレス文庫にすでに動いていた。ローマの写字生たちやキケロにも動いていた。
 ただし古代や中世やルネサンスでは、さすがに"書癖"というものを描くにはいたっていない。ともかく集めるだけなのだ。メディチ家の資金で好き放題に書物を集めたプラトン・アカデミーの首魁マルシリオ・フィチーノでさえ、自分の書癖の異常性にふれるまでのことはしなかった。
 やはりビブリオマニアは印刷術と出版社と古本市が確立した近代になっての本格的登場というべきで、だからこそたとえばホレス・ウォルポールは書籍をぴたりと捜し出すことの快楽を綴って「掘り出し上手」という用語をつくってみせたのであるし、チャールズ・ラムは「夜遅く、コヴェントガーデン街のバーカー古書店から家まで持ち帰ったボーモント&フレッチャーの二ツ折本」に異常な愛着が生じたことだけを縷々のべて、それを読む者を存分に羨ましがらせることができたのである。二ツ折本とはそのころの愛書家がほしがったフォリオのことをいう。

 こうして近代社会では、書物を蒐集することが異常な熱になってきた。これは知の愛とはかぎらない。"知物"への愛なのだ。
 だからそこには毀誉褒貶も伴った。しかも何を読むかではなく、何を蒐めるか。うっかりしたこともできない。ノンブルに刷りまちがいがない1635年版の『カエサル』に大金をはたいたブックハンターは、大いに馬鹿にされるのだ。
 他人の蒐集を馬鹿にして悦に入る者があるということは、他所の造本や蒐集に称賛を惜しまない批評も出ていたということで、これは甚だ有名な本であるが、エドワード3世治世下の大法官リチャード・ド・ベリーは『書物経』(フィロビブロン)とでもいうものを著して、当時の書籍宇宙がフランスにこそ開花していることをつぶさに報告して、自分で涎をたらしたものだった。
 こんな骨董趣味まがいのビブリオマニアの状況がはたして書物の将来にとって役にたったのかどうかなどということは、この筋の議論ではご法度である。食通にどんな注告も効き目がないように"書通"にもどんな諌めも通じない。

 本書は、在りし日の生田耕作さんが『愛書狂』につづいて翻訳した。その生田さんがラングにとりくんだのだから、これはもう病気である。
 そもそも著者のアンドルー・ラングその人が19世紀末の異常な愛書家にして博学者であった。詩人であって民俗学者だなどというのはほんのサワリというもので、スコットランド研究の第一人者であって、ホメロスのものの英訳はラングを越えるものがないといわれるほどの語学達者、さらには世界の神話に通暁しているかとおもえば、古今の心霊現象の歴史にの細部にも責任をとっていた。そのうえでウィリアム・モリス、コブデン=サンダスン、W・D・オッカートの範疇に入る"書美学"の権威であった。
 こういう偏執的な書物を紹介するのに生田耕作さんほどふさわしい人はいなかった。本書も、前著の『愛書狂』も、その一字一句に鉛の活字を一個ずつ磨いて持ってきたような彫琢がある。
 それゆえ、これらの本のどこを読んでも息がはずむような律動が満ちているのだが、本書はやはり第2章の「書斎」が異様に症状が重くて、格別である。だいたい次のような症状が露呈する。

 ラングが注目する書斎は大広間の大書斎でなく、家庭の中の一室につくられるべき書斎のことである。できればモンテーニュやウォルター・スコット卿の書斎のように、細君にも召使いにも入ってもらいたくない書斎のことだ。
 その書斎をどうつくっていくか。ラングはその手ほどきをして進ぜようという。その指南が狂気の沙汰なのだ。
 まずガラス戸がついた書棚を手に入れる。まあ、それはいいだろう。ついでその内側をビロードかセーム革で内張りをする。これもいい。なにしろ書物を傷めてはいけない。次に棚づくりになるのだが、全体を5段くらいにするとして、下段は大きなフォリオが入るほどにし、中段は小型のエルゼヴィル版を2、3段に目の高さまで並べるべきだというのだ。
 けれども上段は注意すべきで、埃よけに革の房縁をつけなさいという。これも、達人の指南だから黙って聞いたほうがいいだろう。

 問題はここからだ。「それからとくに留意したいのは」とラングは言って、材木による書棚の選定とそれにふさわしい書籍の選別をしはじめる。
 黒檀ならなんといっても神学系の大型書籍でなければならず、象眼細工付ならばストザードやグラヴロの挿絵入りの豪華本なのである。これらが決まればやっと、周囲に軽文学や牧歌劇の書物が置けるということになるらしい。こういうことは絶対に厳密でなければならないらしい。ようするに書棚の材木と装飾がそこに入る書物を決定すべきなのである。
 ともかくも、こういう基本棚がひとつできあがってしまえば、これでちょっと楽になる。2つ目からの書棚は方形の回転書棚などをもってくる。また、遊び棚などを交えていく。
 が、ここで楽になってはいけなかったのである。書斎には書棚だけではなくて、椅子が必要なのだ。椅子こそは書物を取り出したときの決定打なのである。したがってその椅子は、なんといってもトリュブナー商会のものがよく、ゆっくり回転しながら、その途中に充分に書棚の書籍たちが椅子をめがけて語りかけてくれるようでなくてはいけない。くるくる速くまわる回転椅子などもってのほか、それは書物を愛する者が座るものじゃない。

 書棚と椅子が揃ったからといって、安心はできない。書棚に入手した書物を並べるだけではいけないのである。一冊ずつの製本に心をいたすべきなのだ。
 そのためには、まずはドロームやル・ガスコンやデュスイエなどによる製本の書物を手に入れたい。ゆめゆめフランス装などの本を入手しないことである。あんなものはたちまち傷んで見られたものではなくなってくる。なんであれ背表紙は金箔押しなのだ。それこそが書斎の気品の条件なのである。
 もっと厳密にいえば総モロッコ革装であるべきで、多少は譲歩してもロシア革装にとどめたい。そんな贅沢がどうしてもできないというのなら、シェイクスピアとアルドゥス・マヌティウスだけはモロッコ革にしておくべきである。ただしトマス・モアの『ユートピア』は紋章箔押しの仔牛の皮でなければならず、ラブレーやマロは幾何学模様のグロリエ様式、モリエールやコルネイユは手編みヴェネチア・レース装なのだ(なんということだ!)。
 これでもラングはまだ手をゆるめない。こういうことができないのなら、せめてモロッコ皮のケースを用意する。しかしここにもルールがある。シェリー、キーツ、テニソンの詩集だけを入れるべきなのである(!)。

 ラングはまだ追い打ちをかけてくる。「人によっては中国製や日本製の皮や布をつかいたいとおもうだろうが」と言って、なるほどずいぶんいろいろ配慮して、心ある助言をしてくれるのかなと思わせるのだが、そのばあいはポオやネルヴァルやボードレールのみを選ぶべきであると鉄槌を落とすのだった。
 もうひとつの問題は色彩だ。けれども、これまたはっきり方針をもつべきで(いままでも方針がはっきりしすぎているが)、ホメロスでいうのなら『イーリアス』なら赤を、『オデュッセイア』なら青で包むべきなのだ。どうしてかというと、古代叙事詩の朗誦者たちは「アキレウスの怒り」を朗吟するとは緋色の衣をまとい、「オデュッセウスの帰還」を歌うときは青い衣を着ていたからだ。
 それから書物というものはときどき専門の洗濯屋に出さなくてはいけないとも言う。とくにシェイクスピア本には古い肉のパイのかけらがくっつくことが多いから(どうして肉パイなのかは説明していない)、よく気をつけたいという。いったいシェイクスピア以外の本に何かが挟まっていたらどうするのだろうか。

 さて、ここまでがハードウェア指南だとすると、ここからはソフトウェア指南である。けれども本の中身の話などではない。こういう書斎をつくったら、そこの書籍は絶対に他人に貸してはいけないということなのだ。
 「他人に本を貸して報いられることは何もない」。稀に相手がトマス・ド・クインシーかコールリッジであるときだけ、貸すべきである(なんということだ!)。
 もうひとつ注意すべきは、さあ、ここからがいよいよ狂気の沙汰なのだが、御婦人のことである。ラングが言うには、女性は書物の敵なのだ。イザベラ・デステやポンパドゥール夫人やマントナン夫人のような例外はあるものの、一般的には女性は書物に対して烈しい憎しみをもっているらしい。
 その理由は明白で、第1には、女性は書物を理解しようとはしないという。第2に、女性は書物のもつ神秘的な魅力が妬ましい(なるほど、ちょっとそんな気がしないでもないが)。第3に、女性は書物には資金がかかることを知ってはいないので、書物の価値をいたずらに混乱させるだけだというのだ。
 そこで警告である。これら明白な理由を無視して書物を蒐集すると、その書斎はいつか不幸なことになるという。そして、いつかはそれらの大半が二束三文で葬られるか、書斎そのものが物置部屋になるという。

 ざっと、こういう調子なのである。まったくもってお節介な話だが、ビブリオマニアとは真実こういうものなのだ。書物は宝石よりも輝いているものなのだ。
 そんなビブリオマニアをどう日本語に訳すのか、最初にぼくが書いたことがまんざら漱石の諧謔でも謙遜でもないらしいということも、きっとおわかりいただけたことだろう。いや、漱石自身が御婦人の書物音痴に苦笑していたらしい。

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