パブロ・カザルス
鳥の歌
筑摩書房 1989
ISBN:448003188X
Pablo Casals
Song of the Birds
[編]ジュリアン・ロイド・ウエッバー/訳 池田香代子

 バッハの無伴奏組曲全曲をチェロで聞くことは、いまでは無上の至福であるとわかりきっていることだろうに、パブロ・カザルスがそれを一人で弾きたいと言い出したときはとんでもない無謀で、あのフーゴー・ベッカーすらもが大反対をしたというのだから、音楽演奏の歴史というのは、まだまだ何がおこるかわからないほどに古い因習の中にいるわけなのである。
 アメリカで演奏会に扇子をもっていくのが流行していたことがある。彼女らはどんな演奏にも扇子をパタパタやって乙にすましていた。カザルスはこの扇子の動きが音楽にあわせつつ決まってずれるのがたまらず、ついに演奏を中止して、ある婦人に「その扇子であおぐのをやめてください」と言った。とたんにその婦人は卒倒したという。

 カザルスは演奏がおわり、家やホテルに帰ってベッドにつくと、必ずやその日の演奏をふりかえるらしい。
 「それは悪夢みたいなものでね」とカザルスは言う。「どんな演奏だったのだろうか、どんな演奏でありえたのだろうかと考えて、頭のなかでコンサートの初めから終わりまで、そっくりなぞるんです」。何から何まで、音符ひとつまでなぞるのだ。それがすっかり終わるまでは、絶対に寝付けなかったらしい。
 そのカザルスの演奏ぶりを、ピアニストのアイヴァ・ニュートンは「これ以上はないという集中」とよび、アルフレッド・コルトーは「完璧なリズムが体の中にある」と言った。誰もが冷静沈着でサイボーグのようなカザルスであると見えたのだが、カザルス自身はこう言っている。「私はどんな演奏のときも、初舞台と同じように上がってしまっているんだ」。実際にも、ヴィオラのライオネル・ターシスがハイドンのニ長調協奏曲のステージの直前のカザルスの目も当てられない緊張をしゃべっていたことがあった。で、ターシスはインタヴュアーが「で、演奏はどうだったんですか」と聞いたのにこたえて、「あんなにすばらしい演奏はなかったね」。

 パブロ・カザルスのチェロを天才的な才能だというのは簡単すぎて、話にならない。
 そこで誰もがカザルスを解剖しようとしたくなるのだが、ぼくが知るかぎりはほとんどが失敗をしてきた。なぜカザルス解剖に失敗するかというと、カザルスがカザルス以外のものを露ほどももたらそうとはしないからである。
 こんな話がある。誰かがなぜあなたはストラディヴァリウスを使わないのかと聞いたところ、カザルスは「ストラディヴァリウスは個性が強すぎる。あれをもつと自分がいまもっているのはストラディヴァリウスだということから離れられない」と答えた。この応答に満足できない連中がふたたび楽器のことを問題にした。カザルスの答えは「私はカザルスが聴きたいんです」というものだった。
 これではやはりカザルスに入りこめない。そこでカザルスにインタヴューをすることなどを諦めたほうがいいということになる。それよりカザルスに耳を傾けさえすればいいのである。しかし、それでも失敗をする。カザルスの演奏を聴くと、カザルスがわかる前に自分が変わってしまうからである。

 ぼくはカザルスの本物を聴いたことがない。
 カザルスが97歳で死んだのは1973年のことだったが(その4カ月前まで演奏していたが)、レコードで聴いたりテレビで見たカザルスの本物に出会っておくには、ぼくの20代はデカダンすぎた。なんであれ変わった老人には無理にでも会っておくべきだとおもったのは、それからのことである。
 のちに五木寛之がカザルスの演奏ぶりについて話してくれたことがある。五木さんはしきりに「魂」という言葉をつかった。「凍えるような魂というものがあるじゃないですか。それが弓の一降ろしで洩れてくるんですね。じっとしていられなかったなあ」。これを聞いて、うらやましいよりも、憎らしかった。
 たしかにカザルスは、どんな演奏家よりも魂の打点が高いところを基準に弾きはじめている。志しが高いといえばそれまでだが、それがいよいよというときに一挙に洩れはじめるのである。たしかにそれはたまらないだろう。凍える魂から雫が垂れてくるわけなのだから。

 カザルスの演奏会はたいてい或る一曲で終わる。『鳥の歌』である。カタロニアの古いキャロル(祝歌)のひとつで、鷹、雀、ミソサザイ、小夜啼鳥が幼い嬰児を迎えて歌う。チェロはそれらの鳥の歌を弾き分ける。『鳥の歌』はカタロニアを愛しきっていたカザルスのトーテムでもあった。
 しかし、カザルスが生きて奏した時代は、そのカタロニアの悲劇と隣り合わせた時代であって、それゆえカザルスを激しい政治に巻きこみ、カザルスもその政治に応えようとすることになった。そういうカザルスの頑固を理解しない者もいる。
 本書は、カザルスの言葉とカザルスにまつわる周囲の音楽家たちの言葉を、ジュリアン・ロイド・ウェッバーがたくみに編集したものである。彼もいまでは有名なチェリストだが、なかなか編集力もある。
 これを読むと、その半分でカザルスがただの頑固おやじだということがすぐにわかかる。ジャズもポップスもピカソすらも理解していないし、ドビュッシーまではともかくとして、現代音楽などまったく耳を貸さなかったということが、はっきり伝わってくる。
 しかし、もう半分でカザルスがなぜピカソや現代音楽を自分に入れなかったかということが、もっとよくわかる。必要がなかったのだ。仮にジャズやピカソを理解したとして、それを彼のチェロに採り入れることができない以上、カザルスはそんなものには目もくれなかったのである。
 われわれも、ときにそんなことをふと思うことがある。いったいピカソを理解して、われわれは何を得たんだっけ?

 カザルスは本書のなかのたった1カ所で、教育について語っている。子供が単語の意味がわかる程度に大きくなったら、次のようにするといいと言うのだ。
 それは、子供に新たな言葉を教えたら、「その言葉は奇蹟をおこせるんだ」というふうに言ってあげることだという。これを読んでぼくはそうか、そうかと忽然と理解した。カザルスのチェロは言霊だったのである

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