オットー・ボルノウ
気分の本質
筑摩叢書 1973
Otto Friedrich Bollnow
Das Wesen der Stimmungen 1941
[訳]藤縄千艸

 気分をあらわすドイツ語"Stimming"がずっと気になっていた時期がある。むろんハイデガーの影響だが、ハイデガーの存在学そのものに入りきらないで、気分についての思索だけをなんとかめぐりたかった。そういうころに出会ったのが本書である。
 本書は刊行まもなく話題になって、名著とされた。しかし、べつだんデキのいい本ではない。ハイデガー議論としても、きっといま読めば一カ所にとどまっているという感想になるだろう。というよりも、当時の事情と今日とはかなり事情がちがっていて、本書のような分析や書きっぷりはあまりにロマンティックか、ハイデガーに加担しすぎて見えるはずである。
 ところが、ぼくはこのような往時の書き方が嫌いではなく、ハイデガーをめぐるにもしばらくこのあたりを彷徨したいという好みもある。それで、本書をとりあげておくことにした。

 気分(Stimming)を捉えるには、情緒(Gemuit)とくらべるとよい。気分は情緒よりもっと深い動向をあらわしている。たとえば情緒は「無」に向かうなどということはないが、気分はときに「無」に向かうこともある。
 しかし、その気分とは何かと問うてみると、意外にこの正体が掴めない。しかし、実感はある。
 たとえば、今日は気分がいいというのは、誰にとっても何にもましてうれしいことでもある。気分が悪ければ、何も始まらない。そしてその気分を放っておくと突き刺さってくることがある。
 気分を損なうということもしばしばしおこる。そこで、いったい何に気分を損なったのか、その正体をつきとめてやっつけてやりたいのに、どうもその正体がわからない。誰かに何かを言われ、自分の中の威厳のようなものが傷つけられて気分を損なったのか。主体性が軌道をはずれたのか。そうだとしても、その程度で損なう気分とは何なのか。
 あらためて気分というものを取り出してみると、これでけっこう難物なのだ。

 われわれが日々感受していることやものには、買い物をするとか英語を習うとか投票をするといったように、ずいぶんはっきりしていることやものも多いのだが、その一方では、これといった基準がないままに動いているものもある。それを哲学用語で「未決定」とか「無規定性」という。
 未決定というのは、われわれは何事にも多少の価値観をもっているはずなのに、その価値観をあてはめてみようとすると、どうもうまくあてはまらないことがある。たとえば喜ばしさとか哀しみというものには確定的なものがない。つねに相対的である。それでもかまわないはずなのだが、それにしては喜ばしさも哀しみもふえたりもする。胸が痛くなるときもある。人間というもの、それでけっこう不安になっていく。
 無規定性は、既存の目盛りで規定してもどうにも何も始まらないことやものである。規定ができない。そこで、そんなものは放っておきたいのだが、放っておくとやはりなんとなく不安になる。落ち着かない。こういうことが気になると、人間における未決定や無規定とはどういうものなのか、そこを考察する哲学や文学がだんだんふえてきた。いったいこれは何だということになってきた。20世紀哲学はそこから出発したともいえる。

 気分というものが重要だと気がついたのは、ぼくが知るかぎりではノヴァーリスが早かった。
 ノヴァーリスは音楽を聞いているときに、ふだんの感情の動きや価値観とはちがう心の感受性があることに気がついていた。そこで音楽的なものには気分という本質的な何かが含まれているのではないかと考えた。しかもそれは「内面の生」とは直接は関係がない。内面からダイレクトに出てくるものとはちがっている。外的な音楽を聞くと動かされるのだから、環境というか、自分の周囲にとりまくものと関係がある。気分とは、つまりは自分の何かと外の何かがまじるものなのだ。
 ノヴァーリスはここで「雰囲気」という言葉をつかって、「雰囲気には結晶的な特徴がある」とまで考えた。それはそれでいい。何かを言い当てている。が、まだこの時代には神もいた。
 20世紀になって、ヘンリー・ジェイムズの『ネジの回転』トーマス・マンの『魔の山』プルーストの『失われた時を求めて』がそうであるが、人間の不安を扱う文学がふえてきた。そこには神なんぞはもういない。自分がいるだけである。神に頼って不安と戦えないとすると、自分で闘うしかない。それで、不安をめぐる哲学が登場し、キルケゴールからハイデガーにおよぶ実存哲学が芽生えた。また、その一方で心理学や精神医学が始まった。
 今日では、気分の正体を精神医学が数々の専門用語で突き止めたとおもっているふしがある。ストレスのせいだとか、アセチルコリンのせいだといわれると、そういうものかと得心してしまう。が、はたして気分の化学分子がそういうものであるかどうかは、なんとも言いがたい。それならボルノウのように「気分をずっと哲学している」のが、案外、最も良質な気晴らしなのである。

 というわけで、本書をハイデガーの解読書として読むには物足りないのだが、気分の哲学を読む気分になるには、もってこいだったのだ。もう四半世紀も前のことだったが、たしかぼくは、そういう読み方をした。
 まあ、邪道な読み方である。けれども、読書にはそういう遊び方もある。オスカー・ベッカーやミシェル・セールの読み方にはそれを許容するものがある。

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