三上隆三
円の誕生
東洋経済新報社 1975・1989
ISBN:4492460241

 明治4年、1円が誕生した。1500ミリグラムの純金に相当する貨幣である。それが明治30年に750ミリグラムになり、昭和12年に290ミリグラムになった。
 戦後、日本がIMFに参加してみると1円はわずか2.4ミリグラムに落ちた。約80年のあいだに円の価値は600分の1になったことになる。1ドル=360円がレート。ぼくの子供時代は、この1ドル=360円がバカのひとつおぼえのようなものだった。1年が365日だから、なにかそれに関係があるのかとおもっていた。
 一方、昭和46年にスミソニアン体制の確立によって初の円の平価切り上げがおこる。90億ドル以上の金外貨準備の蓄積と国際収支の黒字を背景とした切り上げである。これはニクソン時代のアメリカがベトナム戦争その他で疲弊したアメリカの苦境を脱するための方策に日本が応じたもので、日本の貨幣政策とはなんら関係がない。これで1ドル=307円となった。その後はしだいに切り上げがおこり、いわゆる「円高」が進行する。いま、円にはどんな自主性も、ない。

 純金換算価値の円と平価の円。この二つの円によって、日本の何が表現されているのか。
 このことを正確に回答できる理論も、経済学者も政治家も、おそらく日本には見当たらない。それほどわれわれは円については従属的なのである。むろんアメリカに。

 明治4年に円が誕生したということは、この年に日本が資本制経済国家の第1歩をしるしたということである。この年、京都の村上勘兵衛書店から『改正新貨条例』という本が出た。本書はそこから話をおこしている。
 まず洋銀と一分銀との交換レートから準備が始まった。ついで新貨条例によって「円」を新たな貨幣呼称として、1円金貨をもって「原貨」とするシステムが発足した。同時に「算則は十進一位の法を用い」て、10厘を1銭に、10銭を1円とした。これは慶長期以来の「両・分・朱」による四進法型の日本の貨幣システムをまったく変えるもので、はっきりいって断絶があった。
 にもかかわらず、この「両から円へ」の移行はたいした混乱もなくうまく収まっている。これは日本人あるいは日本の社会というものが、幸か不孝か、「断絶による空白」や「正確な継承」よりも、なんらかの「新たな力の介入」や「よその成功例の真似」を安易に選びたがるという性質をあらわしている。明治維新もそうだった。敗戦後の戦後社会もそうだった。日本人は価値観の切り替えは嫌いじゃないわけなのだ。しかも、切り替えたあとには、それ以前の価値観がつくった文化を捨てるクセがありすぎる。

 そもそも日本の社会は貨幣制度や通貨の文化に関しては鷹揚だった。よくいえば鷹揚、はっきりいえば現実対応型だった。
 そのことは、江戸時代の貨幣制が「三貨制度」とよばれているように、東国では金貨が、西国では銀貨が、小取引には銅貨が、それぞれ用いられていたという地域別の併存状態にあらわれている。これは、そのころから「関東の金遣い、上方の銀遣い」とか「江戸は金目、上方は銀目」といわれてきた慣行で、誰もおかしいとは思わなかった。この国内決済における金銀銅の巧みな使い分けと並立のことは、最近は「日本はひとつじゃない、東国と西国は別の国だ」を連呼する網野善彦さんがいろいろな場面で強調しているので、よく知られていることであろう。
 もっとおもしろいのは、価格表示にさえ少しずつ相対的な価値観があらわれていたということで、たとえば鯛は金貨で、米・着物・塩・砂糖・薬礼などは銀貨で支払われ、野菜や豆腐は銅貨で支払われることが多かったのである。寺子屋の先生などへのお礼も各地の現物にもとづいた。
 では、これらがまったくバラバラかということ、そうでもなく、三貨は市場比価と相場で相互に取引されていたのだから、これはいわば“併行本位制”とでもいうものなのである。

 このようなことがおこった原因は、さかのぼればそれこそ網野さんの議論にあきらかなようにいろいろルーツはあるのだが、近世以降で取り出せば、江戸社会が最初は「米遣いの経済」を中心にした実物経済だったことにもとづいている。
 それが寛文期になって商工業者の台頭による「金遣いの経済」が目立ってきた。このあたりの様相の変化は熊沢蕃山の『集義和書』や井原西鶴の『日本永代蔵』によく描出されている。
 その後、江戸の貨幣制は五匁銀の登場、とりわけ天保の一分銀の登場によって、秤量貨幣から計数貨幣の流行を生む。また、田沼意次の懸命の貨幣政策にもかかわらず、銀貨が後退して金と銅を主流とした流れにもなっていった。
 しかし、どんな事情が江戸社会にあったにせよ、これらは明治維新によってガラリと変革を受けることになってしまう。それが円の誕生の宿命だったのである。

 明治政府が銀本位制でスタートしたことは、あまり知られてはいない。そんなことを知らなくて、よくも日本の近代を云々できるかとはおもうけれど、これまでそのへんの話題を交わしてぴたりと事実を述べられた知人は少なかった。が、問題はその事実のほうにあるのではない。事実の裏のほうにある。
 本書はむろんこのことにもふれているが、説明がわかりにくく、いまひとつシナリオが読めない。
 円による銀本位制という方針は、政府が相談をかけていた英国オリエンタル・バンクの支配人ジョン・ロバートソンの強い進言による。明治政府の自主判断ではなかった。これは江戸幕府以来の“商館貿易”の延長で、パークス、ロッシュなどの交易外交官につづいて、ロバートソンが政府要人を動かした。このことは表面的には、当時の列強諸外国で金本位制を施行していたのはイギリス1国だけだったから、銀本位制は当然の成り行きだったろうとも見える。
 表向きはそうなのだ。けれども、そこには裏の意図、裏のシナリオがあった。
 実は日本が銀本位制を選ぼうとしていた一方では、1871年にはドイツが、ついで1875年までにはスカンジナビア貨幣同盟のスウェーデン、デンマーク、ノルウェーが、それぞれ金本位制に移行していった。フランス、ドイツも金本位を考えていた。他方、アメリカやイギリスなどの銀の力に頼る国では、こうした金主導に向かいそうな国際経済の趨勢を、なんとか銀によって抑えておく必要があり、そこで日本に銀を押し付けておいたという筋書きもあったようなのだ。
 これはロバートソンがイギリスの利益を代表していたこと、日本側が金本位制をもちだしたところ、ロバートソンがかなり強硬に反対した記録がのこっていることなどから、まずまちがいがない。
 そうだとすると、日本はひっかけられたのか。そのうえで円による銀本位制を受けたのか。どうもそういうことになってくる。騙されたとはいわないが、あれよあれよといううちの五里霧中の中での決定だった。したがって、これを伊藤博文らが金本位制に切り替えるにあたっては、かなり内外の軋轢をはねのける必要があった。敗戦直後の憲法制定に似ていなくもない。日本という国、こういうことの繰り返しなのである。

 ところで、このときなぜ「円」という名称がついたのかということは、まだわかっていない。
 円の誕生にかかわった大隈八太郎(重信)と造幣判事の久世治作があやしいのだが、いまのところは円形状の円貨をつくるのだから「円」にしたという説と、造幣機械を輸入した香港側ですでに「銀円」という用語が通称されていたのでそれを流用したという説とがあって、いずれも説得力をもつにいたってはいない。
 もうひとつの説は、すでに橋本左内や横井小楠や佐久間象山らが内々で「両」を「円」とよんでいたという記録があることだが、これも十分な証拠にならない。
 いずれにしても、円の誕生はいまだにミステリーの裡にある。この原稿を書いている1週間前、アメリカと日本は同時株安となり、日銀は金利ゼロ政策を打ち出した。おまけに森首相はブッシュ大統領に会いにいって、銀行の不良債権を縮減することを約束させられた。そういう1週間だったのであるが、歴史がくりかえされているという印象が強い。

参考¶円をめぐる研究は意外に遅れている。1962年に新庄博の『円の歴史』が英文で発表されたのを機会に、もう少し活況を呈するかとおもわれたが、円がおかれた国際情勢が緊迫しているわりには、そうでもなかった。やたらに海外の議論を真似た見解がはびこるこの国らしい体たらくである。日本の通貨の歴史そのものは、たとえば『図録・日本の貨幣』全11巻(東洋経済新報社)のようなものはある。刀祢館正久『円の百年』(朝日選書)など参照を。

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