C・W・ツェーラム
狭い谷・黒い山
みすず書房 1959 新潮社 1975
C・W・Cerm
Enge Schlucht und Sshwarzer Berg 1955
[訳]辻惺

 この本は懐かしい。ツェーラムを知らないで読んだ。ツェーラムを知らないでという意味は、本書が日本で翻訳される前に、すでに『神・墓・学者』がベストセラーになっていて、次の『最初のアメリカ人』も早々に翻訳されていたという意味だ。
 考古学者の本は、高校時代まではほとんど読んでいなかった。ヘイエルダールのコンティキ号による漂流記とヘディンの中央アジア探検記に心を躍らせた以外には、記憶がない。いまからおもうと不思議なのだが、シュリーマンやロゼッタストーンの解読にもあまり関心がなかった。まあ、こういうことには何事にも縁というものがある。

 それが早稲田に入って最初の一日目に、アジア学会というサークルに入った。キャンパスを歩いていたら勧誘されたのである。なぜ勧誘されたのか、いまもってわからないが、きっとモンゴリアンの典型のような顔をしていたのだろう。
 これが縁だった。入ってみたら松田寿男さんが顧問をしていて、この人が熱心だった。例の『丹生の研究』の松田さんである。それで急に考古学に、とりわけアジアの古代に関心が出てきた。空海に興味をもったのも、この松田さんのせいである。
 ところが、アジア学会はシルクロード・ブーム一色なのである。むろんNHKのシルクロード特集などが始まる10年以上も前の話だが、その学会内ブームがはしゃぎすぎていた。これにはついていけない。それでもぼくのどこかに古代アジアの火はついていた。それで少しずつ、砂塵を払うように本を読むようになった。古色蒼然というけれど、この手の本にはまさにそんな錆びた色が堆積しているようだった。
 古代文字にがぜん興味が出てきたのは、その直後からである。最初に線文字Bから入ったのがよかったのか、これは驚くべき興奮をぼくにもたらした。そこからは一瀉千里、古代文字こそがぼくの石狩挽歌となったのだ。

 本書には「ヒッタイト帝国の秘密」というドイツ語の副題がついている。ヒッタイトの首都は小アジアの北部、クズル・ウルマク河が描く弧に抱かれたトルコの寒村ボガズキョイにあった。ここが、ツェーラムの名付けた「狭い谷」である。
 一方、トルコの東南部、ジェイハン(ピュラモス)河に沿っての山の背にカラテペがある。これがツェーラムのいう「黒い山」である。ここではヘルムート・ボッサートが発見したヒッタイト文字碑文が発見されている。考古学者たちが夢にまでみた「ビリングエ」の発見だった。解読ずみのフェニキア文字とまったく同文のヒッタイト文字が出土した。
 ツェーラムはこの二つの「狭い谷」と「黒い山」を踏査した歴史を語り、そこから浮かびあがってくる謎を解いていく。当時の記憶では、まことに説得力のある文章だった。なるほど、このように考古学はスリルに入っていくのかということが、手にとるように見えてきたという思い出がある。

 また、この本を含む何冊もの小アジア史や古代アジア関係の本を読むにあたっては、ぼくが高橋秀元と一緒にいたということが大きい刺激だった。
 当時のわれわれは仕事場がまるごと生活の場であったので、高橋君とは年がら年中一緒にいるようなもの、当然、考えていることや読んでいる本のことをしょっちゅう交歓した。高橋君は専門が東洋史であったから、とくにこの手の議論をするには最高のパートナーであった。
 それに、高橋君はそのへんの学者の十人力・百人力の推理力と読解力の持ち主だったので、何かひとつのことをいうと、たちまち騎馬民族のようになってみせてくれた。砂塵に埋もれ、岩石にへばりついた知を何十何百と襲来させて、ぼくを喜ばせてくれたのだ。ぼくの古代冒険は高橋秀元がいなければ、ただの観光旅行になっていただろう。

 さて、ツェーラムが残したものは、ぼくの中では二つの別の充実になっていった。
 ひとつはヨハン・ホイジンガの言葉の発展につながった。ホイジンガの言葉とは、ツェーラムが本書で拠点にした言葉でもあるのだが、「歴史とは、ある文化がその過去について自身に釈明をおこなう精神的な形式である」というものだ。これはうっとりするほどすばらしい。
 もうひとつは、その後はアッカド帝国やアッカド語に対する関心となって膨らんでいった。この出発点はアマルナ粘土板にある。これは楔形文字で書かれていて、すでに解読されている。それが当時の古代オリエントの外交用語であったアッカド語であったはずなのである。ツェーラムは膨大なアマルナ文書に含まれていたファラオーへの通信をきっかけに「狭い谷・黒い山」に分けいったのだったが、ぼくはそこからアッカドの記憶というものに入りたくなっていた。
 高橋君、思い出すよねえ、ぼくたちは「遊」の第2期をアッカド幻想で撹拌したものだったんだよね。

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