ジェローム・デュアメル
世界毒舌大辞典
大修館書店 1988
ISBN:446901222X
J r me Duhamel
Le Grand M chant Dictionnaire 1985
[訳]吉田城

 だいたいこの手の箴言集はつまらないものか、一人よがりのものが多い。それでもアンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』を嚆矢として、読者の跡は絶たない。
 読者というものがお手軽を求めるせいであるとか、結局みんなスピーチのときに困っているせいだ、とばかりもいえない。このように世の名言というものは、つねに編集されてきた歴史をもつことによって、名言となってきたと言ったほうがいい。これがヘロドトスやプルタークでも同じこと、結局は誰かが誰かの言葉を採りあげ、これを編集してきたわけなのである。つまり箴言集とは思想史や文化史のフリーク・ショーなのだ。そう思って、こういう箴言集を眺めるとよい。
 しかし、もう少し別の見方もある。これを「編集稽古」の例題と見立てて遊んでしまうことである。2、3の"使用例"を紹介しておく。気楽に読まれたい。

 たとえば、この手のものには必ず登場するバーナード・ショーを例題にすると、この3段活用が編集術なのである。「良識を求めることができない人間には3種類ある。恋をしている男と、恋をしている女と、恋をしていない女だ」。
 ようするに「どんな女も良識では左右できない」とフェミニストが怒りそうなことを言っているのだが、それを3段活用でちょっとだけ煙に巻いた。こういう編集術は、1、2の3でもっていく。3がミソになる。これを2段活用で落とすと、こういうふうになる。「初めて女を薔薇に譬えた男は詩人だが、2番目にそれをした男はただの馬鹿である」(ジェラール・ド・ネルヴァル)。
 既存の論理や考え方に文句をつけたくなることは、誰にでもよくあることである。こういうときに、しゃにむに新しいことを言おうとしても歯がたたないことがある。とくに神や道徳や民主主義を批評するときだ。そういうときにポール・ヴァレリーが示した手が使える。「神は無からすべてを作った。ただし、元の無がすけて見えている」。これは神学の主張をそのまま使って裏返してみせたという編集術。もっとこれを素直な表現で言い換えると、こういうふうになる、「しかしそれにしても、天地創造の前に神は何をしていたのかね」(サミュエル・ベケット)

 言葉とか概念というものは、それを最初から提示したのでは、その重さにひっぱられてしまうものである。そこで、その言葉や概念を示す前に、別の入口を用意する。そういう編集術がある。
 この方法がやたらに得意なオスカー・ワイルドの例を紹介しておく。こういうものだ、「この世にはただひとつの恐ろしいこと、ただひとつの許しがたいことがある。それは退屈である」。ではもうひとつ、初級クラスのもの。「初めは並んで寝て、やがて向かいあい、それから互いに背を向ける。それが体位だ」(サシャ・ギトリー)。この「体位」を「愛」に変えることもできれば、日本の自公保ではないが、「連立政権」とすることもできる。
 言葉や概念も最初に規定をもたらすが、フレーズにも初期条件というものがひそんでいて、そのフレーズから始められると、ついつい次の推測が成り立ってしまうことがある。で、これを逆用するわけである。マルセル・パニョルがいつも使う手であるが、こんな例題ではどうか。「女と寝なかったのは、多くのばあい、頼んでみなかったからだ」。われわれは「女と寝る」「女と寝ない」というフレーズで勝手な推理の中に入ってしまうのである。

 ふつうに気持ちを表現すると、まずいときがある。こういうときに編集術がものを言う。ゴンクール兄弟は田舎に行くたびに退屈をしていた。なぜ、こんなところがいいのか理解不可能だった。そこで、こう書いた、「田舎では雨が気晴らしになる」。ハイ、座布団1枚。
 どれを褒めても、どれを貶(けな)しても、ぐあいが悪いときもある。こういうときは大岡裁判が必要だが、それをうまくはこべるにはちょっとした編集術が試される。アンリ・ド・レニエの名裁判を見てほしい。いったいどこを貶して、どこを褒めたのか。わかるかな。「フランス人は歌は調子はずれだが、考えることは正しい。ドイツ人は唄は正確だが、考えることは正しくない。イタリア人は考えないが、歌っている」。ハイ、座布団3枚!

 本書はもうひとつ、読み方がある。著者がフランス人であるために、ここにはフランス人の思考方法が手にとるように見えてくる。そこを読む。
 ついでに、そのぶん、フランス人が何を揶(からか)って文化をつくってきたのか、それがよくわかる。そういう読み方だ。ハイ、ご退屈さま。

コメントは受け付けていません。