ジェフレイ・チョーサー
カンタベリ物語
筑摩書房 1972・1987
ISBN:4480021264
Geoffrey Chaucer
The Cantaerbury Tales 1387~ 1400
[訳]西脇順三郎

 渡辺一夫ならガルガンチュア、西脇順三郎ならカンタベリー、手塚富雄ならゲーテ。最初はそういうつもりで読んだ。西脇順三郎に興味をもっていた時期だ。そのころのぼくは日本の現代詩人のエッセイといえばもっぱら西脇順三郎と鮎川信夫だった。50代の父が癌に罹り、ぼくが早稲田を出る前後のことである。

 読む前は『カンタベリー物語』は中世説話集といえば説話集なのだから、『千夜一夜』や『今昔物語』のように読めばいいとおもっていた。が、読みすすむうちにこれはだいぶんちがうぞと感じた。まずフレームワークがしっかりしている。『デカメロン』に近い。話の種類もいくぶんエンサイクロペディックに集めてあって、むろん中世イギリスによく知られた寓話やファブリオなどを並べたのだが、そこに前後左右の結構を意図した組み立てがある。
 加えて、語り手がきわめて特徴的に突出していて、そこにチョーサー自身も交じっている。自分の顔がある。だから綴るにあたってチョーサーの同時代の“現代性”の自意識というか、生き方というか、精神のようなものが思わず香っている。
 これは、ふーん、という驚きだった。西脇順三郎が傾倒した理由も少し伝わってきた。それからは、読んでいるとちょっとした工夫がモダンだなと感じるようになった。

 読みおわってしばらくは、実はどうでもよくなっていた。やがてイギリスの歴史や英語の歴史に関心をもつようになると、とくに英仏百年戦争がいろいろな謎を解く鍵だということがだんだん見えてくると、ふたたび『カンタベリー物語』が海底に沈んだ難破船を引き上げるかのごとくゆっくり浮上してきた。
 そこではっきりしてきたことは、チョーサーが英語をつくったようなものだということである。当時のロンドン方言をチョーサーが詩の言葉にし、物語の言葉にしたから、英語がデファクト・スタンダードになった。
 だいたい「国語」というものはそうやって形成されていく。フランス語は『ロランの歌』や『薔薇物語』によって、イタリア語はダンテの『神曲』などによって、その基本OSをつくったといってよい。語り部がその土地の物語をおおむね網羅するために尽くした方法の裡に、その国の「国語」は芽生えたのである。いや、国語が芽生えてから「国」が意識されることも多かった。日本語だって『平家』や『太平記』がそのことを促す前は、はたしてそれを日本語とよんでいいかどうかはわからない。

 そういうわけでチョーサーによって英語のホリゾントがつくられたわけなのだが、ところがチョーサーが最初に「文学」に着手したのは意外にもフランス語の物語だった。13世紀の『薔薇物語』にとりくみ、これを翻訳した。
 それがよかったのだろう。きっとこれによって、その「国」の貴族や僧侶や民衆たちが一定の領域をもって語りあう言葉の本質的な動向がどういうものか、かなり承知できたのであろう。その効果は晩年にあらわれてくる。
 次に嵌まったのは2度の旅行のせいもあって、イタリアである。今度はダンテの『神曲』やボッカチオの『デカメロン』にぞっこんになっている。これは決定的だった。ダンテ自身が当時の方言を世界構造に照応させることによってイタリア国語の発生を促した張本人だったからで、そのやりかたは『薔薇物語』の比ではない。ダンテが『俗語論』の大成者であったこともチョーサーは知っていただろう。これはチョーサーの英語形成に大きなスコープを奮起させたにちがいない。
 以上のフランス体験とイタリア体験がチョーサーの第1期と第2期だとすれば、『カンタベリー物語』はやっとチョーサーの第3期の英語期にあたる。ここからいよいよ“母国”に取り組んだという印象だ。ただし、そこに語られた物語の素材の多くは若いころから少しずつ書きこんできたものだったらしい。つまり『カンタベリー物語』は晩年の英語ブラッシュアップ・ワークでもあったのである。

 ぼくは、こういうふうに「文学」なり「表現」なりを時間をかけて仕上げていくことに、なんだかすぐに敬意を払いたくなる。
 中野美代子さんによると、『西遊記』はいまなお書き継がれているというのが中国人の文芸心の原則であるらしいのだが、そういうのが本来の文芸とか物語の伝統というものだとおもうのだ。稲垣足穂は「ぼくが書くものはすべて19歳のときの『一千一秒物語』の注釈にすぎない」と言った。実際にも、足穂は複数の自作をずうっと書きなおしつづけては発表していた。それをいとましいとおもう批評家がいるようだが、これはとんでもない。改作編集をつづけることに、本来の哲学や思想や文芸の真骨頂がある。
 一作の作品を言語表現のままに継げなくとも、メディアをまたいで移ろっていくのもいい。舞台化、映画化、歌曲化、オペラ化、デジタル化、おおいに結構である。国をまたぐのも悪くない。上田秋成が中国の白話小説を換骨奪胎し、これを『雨月物語』にしたようなことだ。それをまた溝口健二が解体し再構成をして、そこにモーパッサンを一揉ふりかけたというのも、おもしろい。是非ともいろいろ試みてほしいことである。
 そういう目でみれば、結局、チョーサーは『薔薇物語』『神曲』『デカメロン』をイングランドで、英語の構造によって継承したといってもいいわけなのだ。また、そういうことをしたからこそ、中世に散逸し、語り方がまちまちだった説話の数々が、新たな英語文学の最大の出発点として蘇生できたのである。

 チョーサーはロンドンの葡萄酒だかを扱う漂商の子に生まれて、1357年にはアルスター伯爵夫妻の小姓となり、その後はフランス遠征で捕虜となりながらも身受けされて、エドワード3世期の王の近習となった。
 それからはケント州の治安判事や代議士をへて、王室土木工事の監督までやった。まあ、作事奉行の小堀遠州のようなものだが、庭や橋をどうしたという記録はない。どちらかといえば職業と執筆とを分け、T・S・エリオットやフィリップ・ラーキンふうに日々を送っていた。
 そして2度のイタリア旅行である。これでラテン世界の「国語の発生」を目のあたりにした。だいたいイギリスという国はフランスから分かれて自立したようなところがあるから(このあたりのことはぼくも以前に『情報の歴史を読む』に詳しく書いた)、ラテン世界からの学び方と捨て方は、しっかり素養がありさえすればうまくいく。西脇順三郎も書いているが、その点、チョーサーはキリスト教から歴史までそうとうの基礎情報を積んでいた。だからこそダンテ、ペトラルカ、ボッカチオがまるごと入ってきたわけだ。日本でいうなら遣唐使や重源である。たっぷり相手の文化から様式を振り分けて、これを国語文学の基礎建材につかったのだった。
 チョーサーの時代をへて、イングランドは少しずつイギリスに向かっていく。それは新たに「テューダー朝」という社会と文化の課題になる。シェイクスピアまでには、まだ3段階ほどの階段が残っている。

 参考¶「カンタベリー」は最近は「カンタベリ」と表記されることが多いが、なんだかベリベリするので、ここでは昔風にカンタベリーとした。『カンタベリー物語』の日本語訳は西脇訳を勧めたいけれど、正確を期すなら岩波文庫の3冊版(桝井迪夫訳)がいいのかもしれない。ガイドとしては斎藤勇『カンタベリ物語・中世人の滑稽、卑俗、悔悛』(中公新書)がわかりやすいだろう。チョーサーは1340~1400の人で、晩年はロンドンのオールドゲイトの塔の上の居宅に棲んでいた。この近くにチョーサーの前時代のイングランド文学を飾るウィリアム・ラングランドがいた。チョーサーの作品にはほかに、ダンテの影響が濃い『誉れの家』、ヨーロッパ哲学の源流のひとつであるボエティウスの『哲学の慰め』の英訳、イタリア詩を背景にもつ『トロイルスとクリセイデ』がある。

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