マーク・デリー
エスケープ・ヴェロシティ
角川書店 1997
ISBN:4047912727
Mark Dery
Escape Velocity 1996
[訳]松藤留美子

 アーパネットがインターネットに突然変異して奇妙な自律リズムをもちはじめたころ、アメリカの若者たちはそこへ行ってくることを“there”とよんだ。そして、できればそのときにサイバーデリック・カルチャーのエスケープ・ヴェロシティ(脱出速度)を感じたい、そこをできるかぎりは凝りたい、と考えた。そう感じた若者や少年少女は、そのまま濃度の深いネットジェネレーション時代に突入していった。
 本書は「われらは生きるために自分に向けて物語を語るんだ」という視線で綴られている。これはもともと英国ジッピーたちが言い出した哲学だった。ジッピーとは東洋の禅に触発されたペイガン・プロフェッショナル(職業的異教徒集団)のことをいう。そこに電子製のネットがつながった。“there”ができた。だからパソコンはかれらにとっては最初からスマート・ドラッグなのである。合言葉は「ターンオン(覚醒せよ)、ブートラップ(起動せよ)、そしてジャックイン(没入せよ)」である。
 そのために動員されたサイバー・シソーラスはおびただしい。この本一冊がまるまるサイバーデリアで、電子認識増強剤のようでもある。だから本書には、これまで「千夜千冊」でとりあげてきた本のなかではあまりお目にかかれない情報感覚と用語感覚が洪水のごとく溢れている。ここではそのサイバー・シソーラスの切断面だけを紹介することにする。

 登場するのはテクノ異教主義である。そもそもスティーブ・ジョブスがインドに行き、LSDに耽っていた。そこに人間機械共生系とウルトラヒューマニティと電子アシッド系とカウンターサイバネティクスとが加わった。
 ただし、ここまでだけならMAC神話の創生期と変わらない。インターネットとマルチメディアがネット合金の状態になり、ウェブサイトに企業のHPから自殺志願者のHPの“現実”までが遠慮会釈なく入りこむようになってくると、その“現実”とは異なった“new there”のためのメタフィクションが必要になる。それは、新たなテクノグノーシスを伴ったサイバーパンクな感覚を、意識と技術の相互におよぶリバースエンジニアリングで補強したハイパーコミュニティの登場というものだった。(このカタカナの放列、意味わかりますか。でも、本書はこういう調子なんである)
 ただし、お手軽オンデマンドな宇宙意識とやらだけは避けておきたい。それはあまりに安直である。なぜならジョセフ・キャンベルがデストクップ・コンピュータを入れたときすでに、キャンベルはこのマシンのことを「たくさんの規則をもつが慈悲はもたない旧約聖書の神」とよんだものなのだ。
 むしろこのマシンはハイパーインストルメンタルとでもよばれるべきなのである。

 では、このマシンとネットワークの間の住人はどういうヴェロシティ部族なのか。
 まずはナード(おたく)であって、ロッカーハッカーであって、モーフ(MorF)であろう。場当たり主義と共感呪術派ではあろうが、必ずしもテクノラディカルとはかぎらない。科学者にまではなりたがらない。いずれにしても大半が中途半端なテレプレゼンスな存在で、いっぱしのインフォノート(情報飛行士)気取りなのである。
 けれども、かれらはすでにMUD(マルチ・ユーザー・ダンジョン)を脱出速度してきた連中でもある。またMUSE(マルチ・ユーザー・シミュレーション・エンバイラメント)に飽きた連中だ。それよりもテキストセックスをしたがっている。画像複合融合に飢えている。かれらは動かずしてアーバン・サージェリー(都会的手術性)に手を出したくてうずうずしているわけで、その手法の数々を、たとえていえばリッパー(切りさく)、ピールアウェイ(剥ぎとる)、バストアウト(割りきる)をどのように使おうかという禅機を待っている。
 そのくせウィリアム・ギブソンの『記憶屋ジョニイ』に出てくる部族のように、ローテクルンペンでもありたい、オートエロティシズムに酔っていたいという願望もある。そこは平気で矛盾したままなのだ。
 奇妙なことだが、この「間」の世界の住人たちは、ネットワーク部族主義で、自動ミラーリング主義であって、かつトランスグレッション主義(境界侵犯)なのである。

 このように本書のそこかしこの情報速度の断片を粗雑につなげてみると、さて、このようなサイデリック・スペースを自分の脱出速度を感じるところだとみなす非局所的電子網文化というものが、はたしてかつてのダダや未来派や人工知能を越えるものなのかどうかというと、いささか怪しい感じがしてくる。
 そのひとつの象徴が、本書の最後に出てくる「ダウンローディング」という提案だ。
 カーネギー・メロン大学モービルロボット研究所の所長ハンス・モラウェックが提唱したもので、コンピュータ・ネットワークに人間の意識をダウンロードしようという綿密なプランのことである。モラウェックはマーヴィン・ミンスキーに似て、人間と機械のちがいは計算機の速度の問題と考えている。したがって、モラウェックの計算によると、10兆個の命令を1秒で実行するシステムができればダウンローディングはおこるはずだということになる。
 こんなことですむわけはない。しかし、ダウンローディング派は自信があるらしい。ポスト進化論はここからしかおこらないとも考えている。ロスアンジェルスを中心にしだいにファンをふやしているともいう。「エクストロピー」という機関誌もできた。そして、ダウンローディングができるなら、逆に、ウェブの世界を脳の方にアップローディングもできるはずだなどとも考え出した。そう、本書の著者のマーク・デリーは伝えている。
 エスケープ・ヴェロシティが、結局はダウンローディングだという結末は、つまらない。本書はやはりサイバー・シソーラスを遊ぶための本なのである。

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