平田俊子
平田俊子詩集
思潮社 1999
ISBN:4783709270

 好きではないのに、読むものがある。そんな読書ってあるんですかと言われることがあるが、おおありだ。俳句や短歌や詩の大半はそうやって読んでいるし、週刊誌も小説も、そうやって読む。古典や科学書も好きでよむのは少なくて、クセで読む。
 読書だって食べ物なのである。ただし、食べ物だから御馳走もあるしジャンクフードもある。おいしい懐石の途中でジャガリコを食べることはしないが、ジャガリコを食べるとおいしい夜更けというものもある。その夜更けは懐石など食べる気にならない。本によっては、ふかして食べるとか、冷やして食べるとか、そういう食べ方もある。つまり関連書を先に読んで、それから入る。
 だから読書にはいろいろの読み方があるというべきなのだ。音楽だって、そうだ。一番好きなものを聞くとはかぎらない。第一、ラジオから流れっぱなしのときもあるし、知り合いのリサイタルでは音楽を聞いていながらも、ほとんど別のことを感じている。

 平田俊子の『ラッキョウの恩返し』が出たときは、コンビニでおいしそうな新製品を買うように、すぐに食べた。いま奥付を見ると1984年の初版だから、ぼくが元麻布に引っ越してまもないことで、人生のなかで最も余裕があった時期だ。
 『ラッキョウの恩返し』には「そうじの科学」という詩があって「縦15歩 横3歩 高さ5歩」の部屋のことが、出てくる。そして突然「宇宙は部屋に化けそこなった」とか「花は一本もないが ブラックホールがひとつある どうです すてきでしょう」とあった。そうか、こういうダシ味のカップラーメンも出たのか、また見つけたら買っておこうとおもった。
 そのうち今度は『アトランティスは水くさい!』が出た。そのなかに「縄が棲む鬼」があって、次のように始まっていた。

  背も血圧も高い男が
  高気圧のもと あえなく逝った
  血圧のひくいちびのわたしに 少し
  分けてくれる約束でしたが
  遺言の中に見当たりませんか

 これを買って食べた。前よりピリ辛の味付けになっていて、うんまあ、こういうこともあるとおもえた。次に『夜ごとふとる女』が店に並んだときは、パラパラと見て、買うのをやめた。
 その後、しばらく平田俊子本舗のことを忘れていた。読書というものは、その本棚の前に体が進むという前戯からはじまるので、詩集の本棚などに行きたくないときはずうっと詩集から遠ざかる。ところがある日、街の初めて入る書店の新刊書の平積みの上の棚に、平田俊子『(お)もろい夫婦』という一冊が飾ってあって、これは手を出してしまった。「雪見大福」とか「カラムーチョ」といったネーミングに似たタイトルの勝利であろう。ぽつぽつ食べ始めていると、お好みあられよろしく中にいろいろ入っている。「二元師走草紙」が食べ頃になっていた。

 本書はこのシリーズの掟にしたがって、詩人のいくつかの詩集から選んだ作品で構成されているが、ぼくが読んだことのないエッセイや、笙野頼子や伊藤比呂美や富岡多恵子の平田俊子小論ともいうべきが載っていて、これがおまけのように得な気分になる。
 とくに伊藤比呂美の平田議論は、本書にかぎっては笙野も富岡をも凌駕していた。吉増剛造の平田についての感想も入っているが、これは書かないほうがよかったという平田論である。吉増さんはコンビニに行ったことがないのであろう。
 平田自身のエッセイでは、平田がはじめて東京の詩人の授賞式パーティに呼ばれ、草野心平から「きみの目はだめだな」と言われた光景を綴った一文が、妙に忘れられない。ぼくが高内壮介に連れられて新宿のバー「学校」で草野心平に会ったときは、「ああ、高内君からよく聞いていたよ。遊(ゆう)だろ、教育テレビにならないようになあ」だった。

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