エピクロス
教説と手紙
岩波文庫 1959
ISBN:4000072072
Epicurus
The Extant Remains
[訳]出隆・岩崎允胤

 水と大麦パンとチーズと逍遥とアタラクシアが好きだったエピクロスは、ぼくが青年期に最も惚れたギリシアの哲人である。
 いろいろギリシア哲学を読んだあげく惚れたのではない。マルクスの青年時代の論文に導かれて読んだら、それが身を震わせたからだった。直観的なものではあったが、ぼくが依拠すべきギリシア哲学は、パルメニデスでもアリストテレスでも、ましてデモクリトスでもないだろうことが見えたのだ。正直いうと、これらはまだ読んではいなかった。のちにアリストテレスには脱帽することになるが、それはベルグソンの場所論を読んでからのことである。
 なぜ、そんなふうにエピクロスに直観したかということは、ぼくがエピクロスを読んだのが物理学に夢中になっていた時期だったことにもよっている。当時ぼくはヘーゲルの「精神の経験の学」に対するに、マルクスの「物質の経験の学」にもとづいたボスコヴィッチやマッハド・ブロイの究極的なフィジカル・イメージを追っていた。

 精神が経験をもつことはわかりきっている。けれども、物質だっていろいろ経験しているはずである。物質にもなにがしかの歴史があるはずだ。
 ともかくもどこかで宇宙がなにかの理由で開闢し、それが最初は光の優位で進んでいたものが、しだいに物質がふえていったことはまちがいがない。そのうち、その物質が星をつくり、その星の奥に重金属がたまっていった。そこで事態が進捗しすぎれば白色矮星や中性子星である。さらに事態が悪化すればブラックホールに突入する。けれどもそうならないで、途中で爆発してノヴァ(新星)となるものもある。
 そういう星の一生の無数の変転の片隅に太陽系が生まれ、地球が転がり出た。そこに情報高分子が生まれて自己複製をはじめ、そこから生命体が、神経系が、ついには意識や精神というものが派生した。これはどうみても精神の経験の歴史ではなく、物質の経験の歴史なのである。その物質には、これだけの経験を重ねてきた自由意志というものが、きっとある。
 では、そうしたあれこれの経験を重ねて意識や精神をつくりだした物質の、そもそもの本体の姿とは何だったのか。どこに自由意志がひそんでいたのであったのか。デモクリトスはこれを分割していけば、その究極にはアトムというものがあるとみた。有名な古代原子論の確立である。唯物論の確立でもあった。ところが、このアトムのフィジカル・イメージは堅すぎる。静止的である。
 たしかに自然界にはアトムのような最終分割原子のようなものはあるだろうが、それがじっとしているとはかぎらない。むしろ、アトムは動いたり、ちょっとは変な活動をしていることだってあるはずなのだ。
 そういうイメージをもったのがエピクロスであった。エピクロスはデモクリトスに対しては敬虔な弟子のポーズをとってはいたものの、堅い原子ではなく動きまわる原子、さらには偏倚する原子というものを考えた。原子が自分で落下して、自分の軌道からそれていくというイメージをつくりあげた。この「偏倚」が卓抜な構想なのだ。

 エピクロスの思索はヘレニズムの勃興期に形成されている。紀元前341年ころにサモス島に生まれたエピクロスが、父親が経済的な理由でそこを離れざるをえなかったアテネに赴いたとき、アレクサンドロス大王が死んだ。ヘレニズムは地中海から西アジアをへてインドにまで飛び散った。
 物情騒然である。ただでさえ貧窮な家庭に育ったエピクロスがそんなアテネにとどまれるはずはない。エピクロスは20代を地中海の島でおくり、ときにロードス島のペリパトス派のプラクシパネスに学び、ときにテオスのナウシパネスに原子論を教わった。
 ところが、この原子論の自由意志をめぐる議論が気にくわない。エピクロスは自説にしたがって師のもとを去り、30歳をすぎてレスボス島のミュティレネに渡っている。ここはかつてアレクサンドロスを教える前のアリストテレスが形而上学を研究していた場所であり、いたるところにプラトン学派がうごめいていた。いつの時代もそうではあるが、こういうところで少数派が理解されるわけがない。エピクロスは排除されるようにランプサコスに移り住む。
 おそらくはここで「偏倚原子」のいくつかの着想を得たのであろう。35歳、エピクロスはようやくアテネに戻ってくる。もはや世の哲人と交わるつもりはなく、80ムアほどの小さな土地を入手すると、そこで静かに自分の哲学を模索した。自分の哲学というのは「何事にも煩わされない自由」というもの、すなわちギリシア語で「アタラクシア」とよばれていたものである。
 そのようなエピクロスを慕う者がいた。むろん少数ではあるが、しだいにエピクロスのそばを離れずに暮らし、思索しはじめた。いわゆる「庭園学校」のスタートであり、「庭園学派」あるいは「逍遥学派」のスタートである。エピクロスはそこに親兄弟を迎え、しだいにふえる弟子たちとともに共同生活をすることを試みる。水と大麦パンとチーズだけ、あとは何事にも煩わされない。標語は「アタラクシア」と、そして「隠れて生きよ」というものだ。

 このように書くと、いかにもエピクロスが学派を組んで、思索にとりくんだかのようにみえるかもしれないが、おそらくはそんなことではなかったと思われる。
 エピクロスが「アタラクシア」を標語に選んだのは、思索や思弁が心の平静を妨げることを嫌ったためである。むろん古代ギリシアやヘレニックなアレクサンドリア時代の哲人たちには、思弁を捨て切ることはできそうもない。そこは「残念」を排除したアジアの禅定とはちがっている。しかし、せめても思索によって自分の心が妨げになるような思索をしないですむようにしたかった。そのためには理論に溺れないようにする必要がある。理屈も一貫しすぎるのはアタラクシアを擾乱してしまう。
 そもそもデモクリトスは必然性を追求した自然哲学者であった。エピクロスはそこがちがっている。必然性などはかえって邪魔なのだ。思索がおもむいたところ、そこへ理屈がやってくればいい。別にやってきてくれなくともかまわない。エピクロスの哲学はそういう自身の思惟を犯さないための哲学であり、エピクロスの集団はそういうことを主旨とする集団だったのだ。
 ただし、ひとつ注意を促しておかなければならないこともある。実はエピクロスののちに、この系統の傍流からは「懐疑派」とよばれる連中が輩出していった。これは、アタラクシアから軌道を転回させて「判断を停止したいんだ」という方向に進んでしまった者たちで、スケプティコス(判断からの遁走)をモットーにした。ときにエピクロス哲学と懐疑哲学が紙一重になるゆえんである。

 さて、世に知られるとおり、エピクロスの名からはエピキュリアンという言葉が生まれた。快楽主義者とか享楽主義者などと訳されている。
 澁澤龍彦も『快楽主義の哲学』でエピクロスを大いに引いた。いやだれもが快楽主義とエピクロスを結びつけてきた。しかし、この見方ははなはだあやしいものである。だいたいエピクロスは快楽など追求しなかった。仮に快楽に近い言葉をつかっているときも、それはたいそう静かなものだった。むしろエピクロスは苦痛を嫌ったのである。人を苦しめること、人を苦しめる思想、人を苦しめる制度、人を苦しめる思索を嫌ったのだ。
 さまざまな苦痛を嫌えば、たしかにそこから「遁走」へは近いものがある。安全や安心の方へ駆け抜けたくもなる。けれども、エピクロスは遁走や逃走は選ばなかった。そこにいて、ここにあることでアタラクシアを三昧(ざんまい)してみせた。
 こうしてエピクロスがたとえ快楽主義者の代名詞だとしても、その快楽主義とは、エピクロス自身が言っているように、それは「友情」に代表される快楽だったのである。こんなエピクロスを、かつてバートランド・ラッセルは「彼の哲学は、冒険的幸福というものがほとんど不可能となった世の中に適合するように意図された病身者の哲学であった」と書いた。名高い『西洋哲学史』の上巻での指摘であった。
 しかし、ぼくはラッセルには半分は賛成するが、半分は反対である。その半分の賛成も「病身者の哲学」という見方についてのもので、これをラッセルはかなり否定的につかっているのだが、ぼくはまったく逆で、エピクロスの病身哲学こそが真の快楽哲学だという視点をとっている。エピクロス、その人はフラジャイルな偏倚原子哲学者であったのだ。

 ところで、ここまで書いてきていまさらでもないのだが、ぼくがはたして「エピクロスを読んだ」と言えるかどうか、それははっきりしない。
 理由はある。エピクロスの著作で今日遺されているのは、文庫本で本文120ページそこそこの本書『教説と手紙』以外は、まったくないからである。むろんどんな短いものでも身を震わせるには足りることはありうるのだが、実はエピクロスに惹かれるには、その後にルクレーティウスの『物の本質について』を併読する必要があった。この本こそはエピクロスの教説を敷延してくれているものなのである。
 そのルクレーティウスがエピクロスの言いたかったことをうけて書いている、「もし原子に偏倚がなかったならば、世界は自己生成しなかったであろう」。

参考¶エピクロスの偏倚原子についてはジル・ドゥルーズ津田一郎になかなか興味深い言及がある。津田一郎はぼくの『遊学』(大和書房)でエピクロスの偏倚原子を知り、そのまま傾倒していったようだ。

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