ルネ・ユイグ
かたちと力
潮出版社 1988
ISBN:4267011605
Rene Huyghe
Formes et Forces 1971
[訳]西野嘉章・寺田光徳

 弁解したくなることが、ときどきある。そんなことをしないほうが潔いのだが、ついつい一言加えたくなるときがある。
 本書については、その存在を知ったときに、ギョッとした。やはり「こういう本はあったのだ」という敬意と感嘆と焦燥である。過日、フランシス・イエイツにワールブルグ研究所の図書館構想を聞いたときと同様のものだった。
 それとともに、この本を知っていたらぼくも少しは加速していただろうということ、また、力は及ばなかったものの、ぼくも似たような試みに夢中になっていたのだということ、そのことをちよっと付け加えたくなった。
 なぜというに、本書はぼくが1978年につくった『遊』の「相似律」特集号にあまりにも近いものだったのだ。ただし、ぼくは視覚的な相似感覚による遊びを重視したのだが、ルネ・ユイグは多様な現象間によこたわる「本性の同一性」(connaturalite)について、かなり本格的な議論を展開している。ユイグはさまざまな実在の奥底にある“ひとつの世界性”(Unus
Mundus)を確信し、この大著を構想し、そして叙述した。
 ぼくも似たようなことを考えて「相似律」を展開したが、そこには理屈はなかったのである。それに、なんといってもユイグの試みは7年ほど早い!

 ユイグが本書を構想したとき、そこには「物質の現象学」がいつしか「生命の現象学」になっていくというマグナ・カルタのような図式があったはずである。
 これはかつてマルクスが「物質の経験の学」をいかに「意識の経験の学」につなげるかという目論みに賭けたように、ダーウィンの進化論が出現して以来というものは、かなり多くの研究者たちの計画の下敷きとなった図式であった(マルクスとダーウィンは同時代人)。実は、ぼくはこの図式を安易につかうことに躊躇がある者なのであるが、他方、そうした試みが世の中に出現したと聞くと、たいていはそれを取り寄せたり、それを眺めたり、それを読みこんだりしてきた。
 こうした試みは気宇壮大であるだけに、たいていどこかに綻びが生じて失敗してしまうことが多い。あるいは言い過ぎたり、一人よがりになることが少なくない。その代表がダーウィニズムを世界に広げたのはこの人だといわれているハーバード・スペンサーの社会進化論である。それに対して、フランシス・クリックやクリスチャン・ド・デューブの“成功”はかなり珍しい。
 そこで、この試みに挑戦するには、物質と意識の両方にまたがる連続的時空を覗く“覗き窓”をつけることになる。その窓は、たとえばDNAでもよいし、たとえば時間というものでもよい。あるいはエーテルの風といったものや脳の歴史といったものでもよい。しかし、覗き窓の設定のしかたによっては、叙述はすぐに暗礁にのりあげ、主旨はズタズタになる。あまり歩留まりのいい仕事ではないわけなのである。
 ところがルネ・ユイグが設定した“覗き窓”は抜群だった。「かたち」と「ちから」の両方をオペラグラスのような双眼の覗き窓にしてみせたのだ。結果はご覧の通り、日本語版でも600ページをこえるすばらしい一冊になっている。

 ユイグが大成功した理由は次の点にある。
 [1]まず、ユイグは芸術から入った。そのほうが「かたち」が見えやすいからである。芸術家たちはたいていが「かたち」をもっている。しかし、その「かたち」の中からあらわれてくるものは、もっと深いところからやってきたものである。
 [2]ついで、そのような「かたち」の性質を刻印するために、さまざまな現象、土地や大河や都市を空から眺めるという方法を採った。これは賢明な方法で、ぼくも世の中が上から見られた写真によっていかに酷似していくかということには注目していた。それをユイグは方法論的にちゃんと提示した。
 [3]その次に、ここが大事なところなのだが、「かたち」は心理を通過すると歪みうるという点にカメラを寄せた。たとえば印象主義の絵画は「かたち」よりも「うごき」をつくっている。あるいは精神病理にかかった患者の絵には「かたち」の変形がおこっている。そのような「かたち」もまた「かたち」なのである。そのためここにトロンプ・ルイユや錯視図形やゲシュタルト心理学の成果を挿入することを忘れていない。
 [4]ここまで準備しておいて、ユイグはそもそも「かたち」というものが自然の中でどのように発生し、決定されてきたかを旅するように勧める。なぜ地球は楕円軌道を動くのか。なぜ直角三角形には3辺の比率をもっているのか、なぜ流体は渦巻をもっているのか、といったふうに。そして、これはぼくも「相似律」でやったことだが、たとえば雪の六角形と亀の甲羅の六角形とミツバチの六角形をつなげていく。

 だいたいこれでユイグの勝利は見えているのだが、ここでユイグは手を緩めなかった。
 [5]鉱物の結晶構造や放散虫のヒドラの形態のように、「かたち」の行き着く先の構造を並べたて、そこにひそむ動向に問題の目を移していった。つまりダーシー・トムソンの研究がそうであったように、「かたちの成長」と「成長のかたち」の区別に介入していったのだ。そしてそれを、たとえぱドラクロアやセザンヌやピカソが芸術表現を変えていった例と比較して、いよいよ読者を科学と芸術の虚実皮膜の「あわい」に連れ去っていくのである。
 [6]こうなれば、いよいよ建築家たちの仕事も入れられる。かれらは「かたち」を生き物のように扱ってきたからだ。また、アラビアやペルシヤやケルトの文様を扱える。文様はけっしてじっとしていないからである。 
 ぼくも「相似律」では文様の動向を入れていたが、ユイグはそのような建築や文様を扱いつつも、そこにウィリアム・ターナーやカラーリス・ルイスまで、クロード・モネからやサム・フランシスまでというふうに、つねにアート・イメージの変容を挿入するのを忘れなかった。そこが脱帽するところなのである。
 [7]こうして、仕上げはいよいよ「かたち」の奥の「ちから」の話で、すべての現象をリンキングしていくという芸当になる。この仕上げは必ずしも充実しているとはいいがたいのだけれど(なぜなら図版ではどうしても「かたち」が見えてしまうからであるが)、それでもロジックとしてはかなり抑えこんでいて、読ませる。つまりは、いよいよ「本性の同一性」(connaturalite)で森羅万象の婚姻関係が結ばれるのだ。

 本書は図版を見ているだけでも、おおいに参考になる。その選択の仕方、並べ方、キャプションの付け方、図版のサイズ。いずれもほぼ完璧である。
 日本語版は鈴木一誌のエディトリアル・デザインになっていて、これは原書とはちがうが、それだけにいろいろの工夫が見られて力強いものになっている。
 ちなみに原書のサブタイトルは「原子からレンブラントへ」というもの。これもなかなか憎い。ぼくも「相似律」に「エデンの園からきつねうどんへ」とでも付けておくのだった!

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