田山力哉
伴淳三郎・道化の涙
社会思想社 1983
ISBN:4390112600

 内田吐夢の『飢餓海峡』の伴淳は渋かった。執念だけが取柄の弓坂刑事という役だったが、撮影中に左幸子は「この人の血は冷えている」と思ってぞくっとしたという。
 伴淳三郎はぼくの父と同い歳である。明治41年に米沢屋代町に生まれている。ここは呉服屋だった父がよく仕入れに行っていたところでもあった。父はどこで見たのか、伴淳の書は「えろううまいもんやった」と言っていた(本書によると伴淳の書は米沢の「登起波」というすき焼き屋にいまも飾ってあるという)。実際にも伴淳は貧乏絵描きの父親に似たのか、書や絵が得意だったようだ。
 伴淳は青少年時代の多くを引越し先の山形小姓町で送った。ここは女郎町である。伴淳はその女郎のベッチョンに憧れた。学校の成績のほうは最低に近かった。本名は鈴木寛定というが、学校や近所では低脳児とよばれた。先生もそう呼んだ。極度の近眼で、紐をつけたメガネをかけていた。

 喜劇役者というものに、ぼくは関心がある。理由ははっきりしないのだが、おそらく子供のころに心から笑えたからだとおもう。立派な人にも見えた。
 二枚目はおおむね嫌いだった。いちばん嫌いなのがジョン・ウェインで、次がクラーク・ゲーブルと長谷川一夫、小学校のころに売り出してきた中村錦之助や東千代之介は三番目に嫌いだった。主役が嫌いだというのではない。大河内伝次郎や嵐寛十郎はすぐ真似をしたくなるほど大好きで、寝巻の袖に片腕を隠して丹下左膳、頭に風呂敷を巻いて鞍馬天狗だった。
 しかし、喜劇役者にはこうした主役とは別のアピールがあった。教室にはえらそうにしている連中とは別に、ちょっとおもしろい子が必ずいるものだが、そういう感覚なのである。その子がいないと誰もが寂しくなるような存在である。
 それで、子供のころから森繁久弥三木のり平、伴淳三郎が好きだった。古川緑波・益田喜頓の味はわからず、榎本健一・堺俊二・有島一郎・フランキー堺にはわざとらしくてなじめなかった。もっともこういう評定はただの子供のおもちゃ好み・お菓子好みのようなもので、その後は『私は貝になりたい』や『幕末太陽伝』のフランキー堺におそれいったりした。

 実は伴淳も、花菱アチャコとの『二等兵物語』を見るまでは知らなかった。
  もともとアチャコにぞっこんだったので、すぐに伴淳のファンにもなったのである。古川凡作という東北弁まるだしの、哀愁のある熱血漢を好演した。この企画は梁取三義の原作を伴淳が松竹にもちこんだもので、11作も連作された。さすがに5、6本しか見ていないが、たいてい泣かされた。
 本書にもその当時のいきさつが紹介されている。それによると、伴淳はこのシリーズでそれまで世話になった俳優や見どころのある若手を次々に世話をしたらしい。森川信・藤田まこともその一人だった。トニー谷も引っ張りあげられたが、撮影中に女と遊んでキスマークを首につけて出てきたというので、伴淳にもエノケンにも殴られている。

 伴淳は役者になりたくて汽車に乗って上野に出た口である。むろん馬の脚まがいの苦労をする。大衆演劇の一座だった。河津清三郎と曾我廼家明蝶がいた。
 そのうち映画にも出るようになり、昭和2年に伴淳三郎という芸名にした。伊藤大輔の『丹下左膳』にも切られ役で出た。立ち回りがうまかったらしい。
 昭和7年、自分で座長になって喜劇爆笑隊を結成している。そこで出会ったのが、のちに同棲もし、別れもし、死に水も取ることになる清川虹子である。18歳だった。彼女は川上貞奴主宰の児童劇団から市民座に入って清水将夫に指導をうけ、座員の中条金之助の子を生んだ。その清川と古川緑波・渡辺篤・花井蘭子・谷崎龍子・岡田静江が旗揚公演をしたというのだから、いまおもえばかなりの豪華メンバーだが、これはさっぱり当たらず、清川も緑波の「笑いの王国」に移っていった。
 しかたなく伴淳も大都映画というところに所属して、ここで主演級・準主演で59本をこなしている。B級C級の映画とはいえ、ものすごい数である。このあたりの修行がハンパではない。

 その後、伴淳は何でもやっている。芝居も映画も選ばない。マネージャー稼業も引き抜きもやった。永田雅一に頼まれて吉本興業のタレントを引き抜く役目である。いくつか店も出している。
 会社もいくつかつくったようだが、借金をかかえるだけだった。むろん女とも誰かまうことなく寝たし、ヤクザともかなり付きあった。いまはヤクザは芸能界のご法度になっているが、伴淳は最後まで公然と付きあっていたようだ。雑感だが、ぼくはヤクザのからまない芸能界、つまりはテレビ局と代理店とプロダクションだけが動かしている芸能界などというものは、いろいろな意味で薄っぺらなものだろうとおもっている。
 伴淳は世界救世教を信仰もしていたようだ。芸能人と宗教の関係はいまも多いようだが、これもよくわかる。このあたりのことは、『伴淳のアジャパー人生』(徳間書店)のほうにいろいろ“解説”が載っている。ちなみにアジャパーは山形の「アジャジャー」という感嘆詞に、伴淳が「パー」を加えたものらしい。
 伴淳はこれで一財産を築いた。「アジャパー」や「ガチョーン」や「パーッといきましょう」だけが大流行するのは、きっと本人がいちばん困っていることだろうが、それを避けないところが喜劇役者のカルマのようなもので、そこにぼくはなんだか宿世から遁れられない役者の記号のようなものを見て、同情したくなる。

 さて、本書は数ある喜劇役者の評伝のひとつというだけで、とくに名著とか傑作というわけではない。著者はこうした映画関係に詳しく、片岡千恵蔵や市川雷蔵の評伝も書いているが、いずれもソツなく簡潔にまとまっているというだけで、それ以上ではない。
 それなのにこれをとりあげたのは、喜劇役者の生涯というもの、その日々を覗いてみると感心することばかりなのだということ、それには田山力哉のような書き方が案外適しているということを言いたかったからだ。
 そんな思いを持ちながら、ぼくはいま黒澤明の『どですかでん』を思い出している。原作は山本周五郎である。
 ぼくはもともと周五郎派なので、森繁の『青べか物語』、三船の『赤ひげ診療譚』はじめ、周五郎が映画化されるたびにこれを固唾をのんで見てきたのだが、『季節のない街』を映画化するとは思わなかった。そしてなにより、その数ある周五郎映画に伴淳三郎がいちばんぴったりの男を演じるとは思わなかったのである。
 それは脚の悪い島さんという初老の男の役だった。軽い顔面神経痛を患っている。黒澤はなんと思ったか、島さんの場面を長回しにした。伴淳はちょっと脚を曲げながらひきずるように歩くことにした。顔面に痙攣がおこると、小さくカカカカ‥と変な笑いのような声を出してみた。台本には書いてないことだった。
 黒沢は言ったそうである、「不器用だけどうまいねえ。人間の厚みが出ているよ」。

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