ジョルジュ・プーレ
円環の変貌
国文社 1973
Georges Poulet
Les Metamorphoses du Cercle 1961
[訳]岡三郎

 1966年10月にジョンズ・ホプキンス大学でシンポジウムが開かれた。
 ロラン・バルト、ジャック・デリダ、ジャック・ラカンらとともに、ジョルジュ・プーレやジャン・イポリットも招かれていた。バルトが「書くこと」について発言したあと、プーレがその感想を「われわれは同じ建物の別のフロアに住んでいるようだ」とのべたことが記録にのこっている。
 このエピソードが語っているように、プーレはそのころすでにポストモダン思想の前駆体だったのである。けれども一般には、バシュラール、ブランショ、リシャール、スタロバンスキーらとともに「ニュークリティシズム」(ヌヴェール・クリティーク)のなかの“ジュネーブ派”として、ロマン派の研究者アルベール・ベガンとともに語られることが多い。

 ヨーロッパの思想にとって「円環」がどれほど大きな意味をもっているかということは、本書のいたるところでのべられている。
 ずっと若いころ、花田清輝を通して、ぼくも一度だけだが円や楕円の幻想と思索について思いをいたすことがあったが、その後はこの手の探索があまりおもしろいものとは思えなくなっていた。むしろバシュラールの物質的な想像力の探索のほうがおもしくなっていた。
 それは、そのような探索がプーレの手にかかると、こんなに稠密になるとは思っていなかったからである。プーレはジュネーブ派の名にたがわぬ詳細を用意してくれていた。
 ぼくは結局のところは、円環がどうのこうのというよりも、この本を通して、ニコラウス・クザヌスの多世界観、ロレンス・スターンの実験、ヴィンケルマンの古典探求の方法、シャフツベリの哲学、「スペクテイター」という雑誌の記事の多様性、ディドロの分子的宇宙を、さらにはぼくがルソーを食わず嫌いだった理由ノヴァーリスとヘルダーとジャン・パウルのちがい、コールリッジの「クラブ・カーン」の衝撃的な意味などを、つづけさまに入手できる快感にひたったのだった。
 それは円環思考をめぐるための読書というより、まして学問的な思索などというより、まるで文学的思想事典のような役割をはたしてくれたのである。

 しかし、プーレはやがてぼくにもうひとつの成果をもたらしてくれた。やがて、というのは、この本は上下2冊にわたるかなり長大なもので、ぼくは当時、これを読むのにずいぶん時間がかかったのであるが、そのうちにプーレとの接し方が変わってきたというべきなのかもしれない。
 それは、本書にとりあげられている文学者や哲学者の“原作”の読み方を読んでいるということだった。
 たとえばバルザックを二つの動向の交戦状態として読む、ネルヴァルの文章をつねに何かの蘇りとして読む、ポオが目をさまさないようにポオを読む、事態の周辺が中心にむかっていることを確認しながらフローベールを読む、「泳ぐ」「飛ぶ」の同義語を追いながらボードレールを読む、いささか誇張した言葉が出てくるたびにそのイメージが終わっていくんだというふうにマラルメを読む
 こういうことをヒントにするようになったのである。むろん邪道なヒントであるが、それがまたぼくの読書のたのしみというものだった。

 本書を「千夜千冊」にとりあげるにあたって、書棚から取り出して見ていたら、昔のシャープペンシルによる書きこみが懐かしかった。
 そこには「バカ!」「これはおかしい」「わかってない」といった批判の言葉が多かった。ぼくは当時、プーレのような叙述がかったるかったのだろう。そのくせ、きっと文芸的アーカイブのように、ときおりそこからデータを引き出してきたのだったろう。

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